若狭徹 (野球)
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 石川県能美郡根上町 |
生年月日 | 1963年3月19日(61歳) |
選手情報 | |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト外 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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若狭 徹(わかさ とおる、1963年3月19日[1] - )は、石川県出身の元プロ野球選手(内野手)。
経歴
[編集]星稜高では、2年次の1979年に第61回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の箕島対星稜延長18回の延長14回裏に、サヨナラ負けのピンチを迎えた時、三塁を守っていた若狭は隠し球で三塁走者をアウトにし、窮地を脱した。この試合で若狭は14回まで打撃では5三振と良いところなく、ここらで一つやってやろうと狙っていたという[2]。同僚によると「トリッキーなプレーを好む選手だった」という[3]。本人も「人と違ったことをするのが好きだ」と言い、隠し球については練習試合でよくやり成功失敗は相半ば、腋の下や股の間にボールを隠す練習をしていたと述べた[4]。
1979年の秋、宮崎県で開催された第34回国民体育大会の2回戦で、浪商高と対戦した。この時、若狭は浪商のエース牛島和彦から木製バットでバックスクリーンに本塁打を放ち、この一撃が中日スカウトの目に止まることになった。
1980年オフに、ドラフト外で中日ドラゴンズに入団。なお、牛島とは中日で同僚になる。
一軍公式戦に出場がないまま、1983年限りで現役を引退。わずか3年で選手生活に見切りを付けた。その理由として、同じ三塁手で中日球団の地元・愛知県の享栄高から藤王康晴が翌1984年から入団することがあり、それをもって選手生活に区切りを付けたという[5]。
引退後は、中日球団の職員に転じ現在に至る。2022年、中日ドラゴンズ野球振興本部野球振興部部長として、各球団の職員を表彰する球団功労賞を受賞した。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 52(1981年 - 1983年)[6]
出典
[編集]- ^ 中日ドラゴンズ通算記録集
- ^ 山際淳司、1985年、25ページ。本人の談話による。
- ^ 松下茂典、2006年、91ページ。同学年の川井捕手の談話による。
- ^ 松下茂典、2006年、92ページ。本人の談話による
- ^ 松下茂典、2006年、225ページ。
- ^ 中日ドラゴンズ 背番号52(背番号Maniax)
参考文献
[編集]- 松下茂典『神様が創った試合』ベースボール・マガジン社、2006年、ISBN 978-4583038780
- 山際淳司「八月のカクテル光線」『スローカーブを、もう一球』角川書店〈角川文庫〉、1985年、ISBN 978-4041540022