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英義彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
英義彦
英義彦學監(前列右から二番目)、前列中央は山岡萬之助日大総長
日本大学における時局講演会(挨拶 英義彦・山岡萬之助)
昭和3年11月10日昭和の大礼参列記念で撮影した肖像写真
1920年10月にカリフォルニア州の日本人会で開催された時局講演会案内 (注釈7)
昭和七年衆議院選挙立憲政友会推薦書(英義彦)

英 義彦(はなぶさ よしひこ、1891年明治24年)9月15日[1]1935年昭和10年)5月1日[2])は、日本の衆議院議員立憲政友会)。日本大学教授。

経歴

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鹿児島県大島郡喜界村(現在の喜界町)大字湾の出身[3][4]鹿児島県立第二鹿児島中学校(現在の鹿児島県立甲南高等学校)を経て[3]1915年大正4年)、日本大学法律科正科を卒業[2]。1916年(大正5年)7月、アメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア大学・スタンフォード大学・コロンビア大学・ニュースクール大学(New school for social research)において心理学・社会心理学・政治心理学などを学び、1921年(大正10年)10月にコロンビア大学のDoctor of phirosophy(Ph.D)の学位を取得する。1923年(大正12年)6月にアメリカ合衆国から渡欧し、イギリスドイツフランスデンマークオランダベルギースイスイタリア各国の成人教育の調査を行った。[4]。1924年(大正13年)1月に帰国し、同年4月に日本大学教授、同年5月には日本大学学監に就任し、日本憲政史、社会学、政治研究、社会教育などを講義した[5][6]

なお、在米中の1920年(大正9年)10月には、新世界新聞社が主催する時局講演会に自由民権運動家でシアトルに移住していた実業家鈴木音高(山岡音高)らとともに講演者として加わり、カリフォルニア州スタクトン・ロサンゼルスサンフランシスコサクラメントサンノゼ・ニューキャッスルなどの日本人会を回った[7]

1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に鹿児島三区から立憲政友会(田中義一総裁)所属で出馬し、当選を果たした。同年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇即位の礼紫宸殿の儀に参列した。1930年(昭和5年)・1932年(昭和7年)の第17回衆議院議員選総挙選挙第18回衆議院議員総選挙ではいずれも再選を目指したが、惜しくも落選し、日本大学で教鞭をとり続けた[3][8]

その後、結核を患い、1935年(昭和10年)5月1日午前5時40分に東京府板橋区の自宅で逝去した。告別式は5月4日に本郷三丁目にあった佛教青年會舘で行われ、山岡萬之助日本大学学長以下教職員数百人が参列し、政界からも同郷の泉二新熊(もとじ しんくま)大審院長、東郷実博士・衆議院議員を肇とする名士多数が参列した[9]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第57回帝国議会衆議院議員名簿』、1929年。
  2. ^ a b 衆議院議員名鑑 1962.
  3. ^ a b c 南日本新聞社『郷土人系 上』(春苑堂書店、1969年)p147
  4. ^ a b 衆議院議員略歴 1932.
  5. ^ 『日本大学一覧』日本大学出版部、1935年、p.151,163,183。
  6. ^ 日本大学 教職員履歴書「英義彦」[要文献特定詳細情報]参照
  7. ^ カリフォルニア州で発行されていた日米新聞 1920年10月12日~20日号6面・7面、新世界新聞 1920年10月13日号1面 参照
  8. ^ 「推薦状同志元代議士、日本大学教授英義彦氏 昭和7年2月 立憲政友会犬養毅床次竹二郎鳩山一郎山本悌二郎前田米蔵三土忠造秦豊助森恪松野鶴平 有権者各位」[要文献特定詳細情報]参照
  9. ^ 東京日日新聞「昭和10年5月2日号11面英義彦氏訃報」、時事新報「昭和10年5月2日号11面英義彦氏訃報」、日本大学学報 昭和10年「本學生粋の學者 英義彦教授逝く 盛儀を極めた告別式」参照

参考文献

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  • 『第一回乃至第十八回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1932年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。