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荒川宗一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒川 宗一
1956年頃撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県掛川市
生年月日 (1925-09-01) 1925年9月1日
没年月日 (2010-08-24) 2010年8月24日(84歳没)
身長
体重
174 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1956年
初出場 1956年
最終出場 1956年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

荒川 宗一(あらかわ そういち、1925年9月1日 - 2010年8月24日)は、静岡県出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物

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掛川中ではエースだったが、全国大会が戦争の影響により中止されたため、甲子園出場はならなかった。

静岡第一師範学校陸軍予備士官学校を経て[1]1946年早稲田大学へ進学した。当初は投手で4番を打ったが、末吉俊信が台頭すると野手に転向し、東京六大学野球リーグでは3回の優勝に貢献した。早稲田大学野球部の黄金時代に主力選手として活動した。リーグ通算86試合出場、320打数94安打、打率.294、1本塁打、55打点だった。大学同期に蔭山和夫らがいる。

プロ野球からも注目されたが卒業後は大昭和製紙に入社した。都市対抗野球大会に5回出場し、1953年大会では大学からのチームメイトである石井藤吉郎とともに打の主軸として出場し、決勝で全鐘紡を降し初優勝を飾る[2]1955年にはミルウォーキーで開催された第1回世界アマチュア野球大会日本代表に選出された[3]

1956年に大昭和製紙から北川桂太郎とともに日本プロ野球高橋ユニオンズに入団した。荒川は既に30歳になっていたが、契約金は400万円、年俸120万円だった[4]。開幕から左翼手・四番打者に定着し、149試合に出場して規定打席にも到達した(打率.225、リーグ33位)。しかし、翌1957年2月に高橋ユニオンズは大映スターズと合併し、大映ユニオンズとなる[5]。1957年は出場機会がなく、同年限りで引退した。

現役引退後は、東洋レーヨン監督、帝京大学監督及び総監督を務めたほか、早大野球部OB会長に就任するなど、学生野球の発展及び興隆に長く貢献した。

2010年8月24日胃癌のため死去した[6]。84歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1956 高橋 149 577 537 44 121 20 4 4 161 37 12 9 7 1 31 0 1 39 8 .225 .269 .300 .569
通算:1年 149 577 537 44 121 20 4 4 161 37 12 9 7 1 31 0 1 39 8 .225 .269 .300 .569

背番号

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  • 5 (1956年)
  • 35 (1957年)

脚注

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  1. ^ 神宮球場ガイドブック2001年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典 ベースボールマガジン社編
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 「日本社会人野球協会会報1955」日本社会人野球協会 1956年
  4. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』126頁
  5. ^ 「別冊週刊ベースボール早春号 プロ野球 新・トレード史」(平成10年2月28日発行)、ベースボール・マガジン社
  6. ^ 元早大野球部OB会長の荒川氏が死去 スポーツ報知 - ウェイバックマシン(2010年9月2日アーカイブ分)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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