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莫多婁貸文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

莫多婁 貸文(ばくたろう たいぶん、生年不詳 - 538年)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人本貫太安郡狄那県[1][2][3]

経歴

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普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、貸文はこれに従った。中興元年(同年)、伏波将軍・武賁中郎将・虞候大都督に任ぜられた。爾朱兆を広阿に討って、功績により前将軍の号を加えられ、石城県子に封ぜられた。中興2年(532年)、韓陵の戦いで爾朱氏を破ると、貸文の爵位は侯に進んだ。永熙2年(533年)、貸文は爾朱兆を赤谼嶺に追撃した。爾朱兆が追いつめられて自殺すると、貸文はその遺体を収容した。左廂大都督に転じた。永熙3年(534年)、高歓と孝武帝の間が険悪となると、孝武帝は賈顕智を派遣して石済を守らせた。貸文は高歓の命を受けて精鋭3万を率いて進発した。貸文は竇泰らと定州で合流し、ともに石済におもむいて、賈顕智を撃破した。東魏の天平年間、貸文は晋州刺史に任じられた。汾州の胡族の乱を高歓が討つと、貸文は先鋒をつとめて、戦功を挙げた。凱旋すると褒賞を受けて、都督汾陝東雍晋泰五州諸軍事となった。後に太保尉景とともに東雍州南汾州を攻めて、これを落とした[4][5][3]

元象元年(538年)7月、貸文は車騎大将軍・儀同・南道大都督に任じられ、侯景厙狄干高昂韓軌可朱渾元らとともに西魏独孤信洛陽で包囲した。8月、西魏の宇文泰らの援軍が函谷関を出ると、侯景と高昂は軍旅を整えて、敵援軍の来るのを迎え撃とうとした。貸文は部下を率いて敵援軍の前衛を攻撃しようと求めたが、侯景らは許可しなかった。貸文は命令を聞き入れず、軽騎1000を率いて前方に斥候に出て、西方の瀍澗を過ぎるところで、西魏の李弼らの軍と遭遇して敗れ、戦没した[6][7][8][9][10]。都督并肆恒雲朔五州諸軍事・并州刺史・尚書右僕射・司徒公の位を追贈された[6][7][11]

子に莫多婁敬顕があった[6][7][11]

脚注

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  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 256.
  2. ^ 北斉書 1972, p. 252.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 1907.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 256–257.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 252–253.
  6. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 257.
  7. ^ a b c 北斉書 1972, p. 253.
  8. ^ 周書 1971, p. 25.
  9. ^ 周書 1971, p. 240.
  10. ^ 北史 1974, pp. 1907–1908.
  11. ^ a b 北史 1974, p. 1908.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4