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萊の滅亡(らいのめつぼう)は、斉が萊を滅ぼした戦い。
紀元前11世紀、周の武王が殷を滅ぼすと功臣であった呂尚(太公望)は営丘に封じられ、国号を斉とした。呂尚が営丘に赴いてすぐに萊との戦争が起こった[2]。
紀元前602年、斉と魯の二国の同盟軍が萊を攻め、同年の秋にも魯が萊を攻めた[3]。
紀元前600年、斉が再び萊を攻めた[4]。
紀元前571年春、斉は萊を攻めたが、斉の大臣夙沙衛(中国語版)()が萊の大臣正輿子(中国語版)()から賄賂を受けたため、斉は退いた。同年の夏、魯の成公の夫人斉姜がこの世を去り、斉の霊公が萊の君主を葬儀に呼んだが来なかった。そこで斉は大臣の晏弱()を派遣し萊に圧力をかけるため東陽の築城を開始した[5]。
紀元前568年、晏弱は東陽の築城を完成させ、萊を攻撃した。同年3月15日、萊(国都)を包囲した[1]。
紀元前567年2月19日、萊軍は斉の叛臣王湫()・正輿子と萊国の棠邑の3軍で出撃したが、すべて撃破された。3月3日、斉が萊(国都)を占領した[1]。萊の君主の共公(浮柔)は棠邑(中国語版)に逃亡した。また、正輿子と王湫は莒に逃亡したが莒の人に殺された[6]。
萊(国都)を占領した後、晏弱は共公のいる棠邑を包囲した。11月7日、斉は棠邑を占領し、共公は郳()に逃亡した。これにより萊は滅亡した[6][1]。
- ^ a b c d 據《新編中国三千年暦日検索表》,魯襄公五年四月没有甲寅,前両天為三月甲寅即格里暦3月15日,魯襄公六年三月乙未即格里暦2月19日,三月丁未即3月3日,十一月没有丙辰,十二月丙辰即11月7日
- ^ 《史記・斉太公世家》於是武王已平商而王天下,封師尚父於齊營丘。東就國,道宿行遲。逆旅之人曰:「吾聞時難得而易失。客寝甚安,殆非就國者也」。太公聞之,夜衣而行,黎明至國。萊侯來伐,與之爭營丘。營丘邊萊。萊人,夷也,會紂之亂而周初定,未能集遠方,是以與太公爭國。
- ^ 《春秋左傳・宣公七年》
- ^ 《春秋左傳・宣公九年》
- ^ 《春秋左傳・襄公二年》
- ^ a b 《春秋左傳・襄公六年》