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菅沼曲水

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菅沼 曲水(すがぬま きょくすい、万治2年(1659年) - 享保2年7月20日1717年8月26日))は、近江国膳所(現・滋賀県大津市)出身の武士、俳人。または曲翠とも。本名は菅沼定常、通称は外記、別号は馬指堂。菅沼定澄の子で、徳川家康に従った菅沼定盈の曾孫に当たる。膳所藩康俊系の本多家)では中老という重職に就き、また近江における松尾芭蕉の門人グループ・近江蕉門の重鎮として、芭蕉を経済的にもサポートした。 

江戸在府中に芭蕉の門人となる。芭蕉が初対面での印象を「ただ者に非ず」と感じたとされる。また後年の著書「幻住庵記」に「勇士曲水」との記述を残しているように、清廉な人柄であったようである。

奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄3年(1690年)、近江膳所を初めて訪れた。その際に避暑地の住処として、伯父である菅沼定知の別荘を手入れし提供したのが幻住庵である。芭蕉はここに4月から7月までの間滞在し、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」との書き出しで有名な「幻住庵記」を著す。

享保2年(1717年)、不正を働く家老・曽我権太夫を槍で一突きにして殺害し、自らもその際に切腹した。墓所は義仲寺にある。

作品

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  • ”おもふこと だまってゐるか ひきがえる”
  • ”念入れて 冬からつぼむ 椿かな”

関連項目

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関連書籍

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  • 「風狂の人〜菅沼曲水〜」2007年 文芸社