華陽丸
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基本情報 | |
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運用者 | 長州藩(山口藩)[1] |
艦種 | 運輸船[1] |
艦歴 | |
要目 | |
排水量 | 413英トン[2] |
総トン数 | 413トン[1] |
長さ | 170 ft (51.8 m)[1] |
幅 | 30 ft (9.1 m)[1] |
機関 | 蒸気機関[1] |
兵装 |
明治元年9月時[3] 英式12ポンド鋳造施條砲 2門 英式12ポンド鋳砲熕 1門 英式9ポンド鋳砲熕 2門 英式1ポンド自在砲 6門 |
その他 | 船材:鉄[1] |
華陽丸(かようまる/かやうまる)は、長州藩(山口藩)所属の運輸船[1]。
艦歴
[編集]『日本近世造船史 明治時代』によると
山口藩が松山で捕獲し、明治元年4月(1868年)に山口に持ち帰り、藩の保管とした[1]。
同年閏4月から8月、馬関と三田尻間を航海した[4]。
『日本海軍史 第7巻』『写真 日本海軍全艦艇史』によると
旧山口藩所属。明治元年松山で捕獲し軍務官所管となったが、同年2月に山口藩に返還された[5]。
『幕末の蒸気船物語』によれば、松山藩の「小芙蓉」を慶応4年2月(1868年3月)に長州藩が拿捕して「華陽丸」と改名[6]。1872年に売却、解体[7]。「小芙蓉」は元は1852年建造のP&O社蒸気船「チューサン (Chusan)」で、慶応2年(1866年)に松山藩が購入している[8]。「グラバー商会」によれば「小芙蓉丸」で、8万ドルで購入[9]。
所属
[編集]上記のように『日本近世造船史 明治時代』では山口藩が保管[1]、 『日本海軍史 第7巻』『写真 日本海軍全艦艇史』では一時的に軍務官(明治政府、日本海軍)の所属となった[5]、 としている。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j #日本近世造船史明治(1973)p.135
- ^ #S3公文備考45/天保山沖観艦式(2)画像1
- ^ #明治元年9月 諸願窺届留 波15/9月 長州華陽丸 覚 備付大砲計11門に御座候事画像1
- ^ #日本近世造船史明治(1973)p.177
- ^ a b 『日本海軍史 第7巻』p.469。中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32。
- ^ 元綱数道『幕末の蒸気船物語』146-147ページ
- ^ 元綱数道『幕末の蒸気船物語』147ページ
- ^ 元綱数道『幕末の蒸気船物語』146ページ
- ^ 杉山伸也「グラバー商会」431ページ
- ^ 『日本海軍史 第1巻』56-57ページ
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター
- 防衛研究所
- 「天保山沖観艦式(2)」『昭和3年 公文備考 儀制26 巻45 大礼特別観艦式2』、JACAR:C04016133400。
- 「9月 長州華陽丸 覚 備付大砲計11門に御座候事」『明治元年9月 諸願窺届留 波15』、JACAR:C09080174300。
- 海軍歴史保存会(編)『日本海軍史 第1巻 通史第一・二編』海軍歴史保存会、1995年
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』海軍歴史保存会、1995年。
- 杉山伸也「グラバー商会」『九州と外交・貿易・キリシタン(II)』国書刊行会、1985年、401-540ページ
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年、ISBN 4-425-30251-6