葛城山田瑞子
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葛城山田 瑞子(かずらき の やまだ の みつこ)は、日本古代の豪族。6世紀中葉の児島屯倉の田令(たつかい)。姓は直。
経歴
[編集]葛城山田氏については、『新撰姓氏録』摂津国未定雑姓に「葛城直」があり、「天神立命之後也」とある。「山田」は居住地域の地名と推定される。
『日本書紀』巻第十九によれば、欽明天皇17年秋7月(556年)、蘇我大臣稲目宿禰(そが の おおおみ いなめ の すくね)たちが備前の児嶋郡(こじまのこおり)に遣わされて、児島屯倉が設置されたが、稲目と共に田令として派遣されたのが瑞子である[1]。児島屯倉については諸説あるが、現在の岡山県児島半島北東部にあたるとする説が有力で、同じ岡山県の白猪屯倉の一部とする説もある。
同年の冬10月、稲目は倭国高市郡(たけちのこおり)の韓人大身狭屯倉(からひとのおおむさのみやけ)、高麗人小身狭屯倉(こまびとのおむさのみやけ)の設置に関与しており、同月には紀国に海部屯倉(あまのみやけ)が置かれている[2]。前年には稲目主導で白猪屯倉が設置されており[3]、これらとの関連性が考えられる。すなわち、屯倉の経営における蘇我氏の指導力と、大陸からの渡来人が果たした役割の大きさであり、屯倉が地方支配のための軍事的役割をも併せ持つ、ということである。
欽明天皇30年(569年)には、百済系帰化人である白猪胆津が瑞子の副(すけ、副官)となったという[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀』(三)岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本の古代6 王権をめぐる争い』、岸俊男:編、中公文庫、1996年
- 『毎日グラフ別冊 古代史を歩く4吉備』、毎日新聞社、1987年
- 『別冊歴史読本 古代謎の王朝と天皇』、新人物往来社、1987年より「〈〈欽明天皇〉〉と対朝鮮外交の謎」文:日野昭、「古代史人物事典」鈴木靖民編