葛西高清
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 応長2年/正和元年(1312年) |
死没 | 貞治4年4月17日(1365年5月8日) / 貞治4年4月7日(1365年4月28日) |
別名 | 清高、清崇、良清?、三郎兵衛尉、道祐(法名) |
官位 | 因幡守、備前守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 葛西氏 |
父母 | 父:葛西貞清、母:不詳 |
子 | 詮清 |
葛西 高清(かさい たかきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清高(かさい きよたか)とも呼ばれる。「仙台葛西系図」にみられる良清(よしきよ)と同一人物と考えられる。
生涯
[編集]当主・葛西貞清(清貞)の子として生まれた。執権・北条高時から「高」の偏諱を受けた。
元弘元年(1331年)9月、元弘の乱に際して、北条高時の命によって畿内へ派遣された討伐軍に「葛西三郎兵衛尉」の名があるが[1]、諸根樟一はこれを高清に比定している[2]。
貞治4年(1365年)4月17日、54歳で死亡したとされる[3]。また、『龍源寺葛西氏過去帳』では同年4月7日に良清が死亡したと記されており、両者は同一人物と考えられる。