董釗
董釗 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: |
1902年7月4日 (清光緒28年5月29日) |
死去: |
1977年(民国68年)9月30日 台湾台北市 |
出身地: | 清陝西省西安府長安県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 董釗 |
簡体字: | 董钊 |
拼音: | Dŏng Zhāo |
ラテン字: | Tung Chao |
和名表記: | とう しょう |
発音転記: | ドン・ジャオ |
董 釗(とう しょう、繁体字: 董釗; 繁体字: 董釗; 拼音: Dŏng Zhāo; ウェード式: Tung Chao)は、中華民国(台湾)の軍人。字は介生。陝西省西安府長安県の出身。
事績
[編集]西安同志学校を経て1924年に黄埔軍官学校第1期歩兵科に入学した。その後、孫文(孫中山)の警衛兵を経て、北京に赴き国民軍第2軍に加入している。1928年(民国17年)、軍事委員会政治訓練処参謀に任命され、1930年(民国19年)、国民革命軍第48師党務特派員に転じた。1931年(民国20年)、第28師参謀長として中国共産党(紅軍)包囲掃討作戦に参加している。1934年(民国23年)、第28師師長に昇進した。1936年(民国25年)12月、西安事件勃発に伴い祝紹周(洛陽中央軍官分校主任)の命で董釗は潼関を迅速に占領、西安の封鎖に成功した。事件解決後の1937年(民国26年)3月、董釗は蒲城で部隊の整備・訓練を行い、6月には廬山で自ら訓練を受けている[1][2]。
日中戦争(抗日戦争)勃発後、董釗は部隊を率いて西安に戻り、西安警備司令兼防空副司令に就任した。しかし1938年(民国27年)春、部隊を率いて徐州の最前線に出撃し、台児荘の戦いに参戦している。9月、第16軍軍長に昇進、10月、河南省南部に赴き、羅信戦役を戦う。11月、西安に引き返して部隊の整備・訓練を進め、西安警備司令兼防空副司令に復任した。1940年(民国29年)11月、董釗は中国国民党中央訓練団に赴いて訓練を受けている。1941年(民国30年)1月、陝西省に引き返し部隊を率いて三原に駐屯、邠洛動員指揮官兼碉堡線封鎖指揮官となった。1942年(民国31年)4月、第34集団軍副総司令に昇進、1943年(民国32年)9月、晋陝綏辺区副総司令に移っている。1944年(民国33年)冬、董釗は陸軍大学将官班甲級第1期で訓練を受け、1945年(民国34年)1月卒業し第38集団軍総司令に昇進した[3][4]。
日中戦争終結直後の1945年(民国34年)7月、山西省南部に部隊を率いて出撃し、陳賡率いる冀魯豫野戦軍太岳縦隊を相手に戦闘を繰り広げた。1946年(民国35年)5月、董釗の部隊は整編第1軍に改編され、董釗は同軍軍長に任ぜられた。1947年(民国36年)、胡宗南の命により延安を攻略した。1948年(民国37年)5月、第18綏靖区司令に就任、同年7月、祝紹周の後任として陝西省政府主席兼保安司令、陝西省党部主任委員となる。1949年(民国38年)5月、西安陥落が迫ったため漢中、さらに四川へ退却した。12月19日、各職から罷免された上で台湾へ逃れた。台湾では光復大陸設計研究委員会委員を務めている。1977年(民国66年)9月30日、台北市にて病没。享年76(満75歳)[5][6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
|
---|