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蒙疆神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蒙疆神社
所在地 蒙古聯合自治政府張家口市林園北街
(現:中華人民共和国の旗 中国河北省張家口市橋東区林園北街)
位置 北緯40度48分59.4秒 東経114度54分34.9秒 / 北緯40.816500度 東経114.909694度 / 40.816500; 114.909694 (蒙疆神社)座標: 北緯40度48分59.4秒 東経114度54分34.9秒 / 北緯40.816500度 東経114.909694度 / 40.816500; 114.909694 (蒙疆神社)
主祭神 天照大神
明治天皇
国魂神
北白川宮永久王[1]
創建 1941年(昭和16年)10月6日
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地図
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蒙疆神社(もうきょうじんじゃ)は、日中戦争期に蒙古聯合自治政府の首都張家口にあった神社

概要

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1940年昭和15年)9月に同地で殉職した北白川宮永久王など4柱の神々を祀っていたが、終戦後に廃絶された[注釈 1]。また、チャハル作戦での戦死者を顕彰する蒙疆忠霊塔が隣接していた。現在、両者のあった土地はそれぞれ勝利公園と烈士陵園になっている。

神道家の小笠原省三は祭神の決定を聞いた当時、日本の外務大臣に意見書を提出し、モンゴル人に日本との精神的一体化を強要するために蒙疆神社にチンギス・ハーンを祀ることが、「蒙古民族を『ラマ教』より救出し、日蒙一体の特殊地域を強化する政策的見地よりするも極めて重要なる」と主張した[1]。「チンギス・ハーン神社」の持論は屡々展開されたが、結局それは聞き入れられなかったという[1][注釈 2]

西北研究所にかぎらず、当時日本の機関・団体に所属する者は、国籍を問わず蒙疆神社参拝を義務付けられていた。研究員の藤枝晃によると、善隣協会には回民女塾を卒業した女性事務員が在籍していたが、イスラム教を信仰していた彼女までもが当たり前のように神道の蒙疆神社へ参拝しに行っていたという[4]

拝殿は切妻の屋根が撤去されたが、2023年の時点で建物として使われている。[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 永久王は、戦後、靖国神社に合祀された(本人の項を参照)。
  2. ^ 小笠原は1937年(昭和12年)以降、外務省嘱託としてしばしば満洲国華北華中などを回った[2]が、蒙疆神社鎮座以前に徳王と会談し「チンギス・ハーンを祀る神社」の構想を伝え、賛同を得た。その後、張家口で駐蒙軍参謀長の田中新一と2時間会談し意見を述べたが、話は平行線に終わった。小笠原によると、「至高の神々と同じ社殿で祀られては、北白川宮様も毎日窮屈でございましょう」と笑って話すと、田中は軍刀を鳴らして「これは日本の国策であります」と大声を張り上げたという[3]

出典

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  1. ^ a b c 田中剛「成吉思汗廟の創建」『20世紀中国の社会システム : 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告』、京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター、2009年、122-123頁、hdl:2433/2464462023年11月8日閲覧。「第1編 メディア・シンボル」 
  2. ^ 小笠原省三 編「小笠原省三年譜(嵯峨井建)」『海外神社史』ゆまに書房、2004年、31-33頁。ISBN 4843312649NCID BA69059693 
  3. ^ 小笠原省三 編「蒙疆神社の祭神問題」『海外神社史』ゆまに書房、2004年、235-236頁。ISBN 4843312649NCID BA69059693 
  4. ^ 澤井充生「皇居遥拝した回民たち : 日本の回教工作にみる異民族への眼差し」『人文学報』第513号、首都大学東京人文科学研究科、2017年3月、107-129頁、ISSN 0386-8729NAID 1200063280682021年6月1日閲覧 
  5. ^ 韩祥瑞 (2023年9月22日). “漫话张家口胜利公园” (中国語). 张家口地方文献工作室. 2023年11月21日閲覧。

関連項目

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