蒲田道秀
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時代 | 室町時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 永享10 年(1438年)9月27日47歳 |
別名 | 弥次郎 |
墓所 | 東京都大田区光明寺 |
官位 | 武蔵守 |
幕府 | 室町幕府、鎌倉公方 |
主君 | 上杉憲直 |
氏族 | 江戸蒲田氏 |
父母 | 父:蒲田忠武 |
兄弟 | 道秀、妙清、道景 |
妻 | 妙貞尼(蒲田殿大方) |
子 | 不詳 |
蒲田 道秀(かまた どうしゅう)は、室町時代の武将。蒲田弥次郎とも。武蔵江戸氏の支流、江戸蒲田氏の一族の一人。
概要
[編集]「本土寺過去帳」に嘉吉2年9月27日没として「道秀・蒲田弥次郎殿」と記録されており、東京都大田区光明寺にある嘉吉2年の「道秀禅門」の板碑は蒲田道秀のものとされる。父は蒲田忠武(四郎入道道儀)。
享徳4年(1455年)の享徳の乱において、弟の下総入道道景が5月14日に武州大袋原(現埼玉県川越市)で戦死し、その子である兵庫助朗忠も同年六月、相州にて20歳代で戦死している。
永享の乱
[編集]→「永享の乱」も参照
道秀は、永享10 年(1438年)9月27日に早川尻の戦い(永享の乱)において上杉憲直に従い鎌倉公方足利持氏方について戦死したとされ、永享記に記されている。
かゝりけれとも続く味方もなし。只今を限と戦けれとも目に余る程の大勢なれは、憲直の頼切たる肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足立萩〔ママ〕窪を初として一族若党悉く討死し、憲直海老名終に討負て散々に成て落行けり
現代文:攻めこんだが続いてくる味方はない。ただ、今が最期のときと戦ったが、敵は目に余るほどの大軍だったので、憲直が頼りにしていた肥田勘解由左衛門、蒲田弥次郎、足立、荻窪を初めとする一族・若党もことごとく討死し、憲直と海老名は結局戦いに敗れて、散りじりになって落ちて行った。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典13東京都
- 永享記
- 江戸氏の研究 関東武士研究叢書〈第1巻〉 萩原竜夫著