蕭績
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蕭 績(しょう せき、天監4年(505年)- 大通3年閏6月9日[1](529年7月30日))は、南朝梁の武帝蕭衍の四男。南康簡王。字は世謹。
経歴
[編集]蕭衍と董淑儀のあいだの子として生まれた。天監7年(508年)9月、南康郡王に封じられた。軽車将軍・領石頭戍事として出向した。天監10年(511年)、使持節・都督南徐州諸軍事・南徐州刺史に転じ、仁威将軍に進んだ。天監16年(517年)、召還されて宣毅将軍・領石頭戍事となった。天監17年(518年)、使持節・都督南北兗徐青冀五州諸軍事・南兗州刺史として出向し、州では善政で知られた。まもなく召還されたが、南兗州の民の曹嘉楽ら370人が上表して、蕭績の功績15条をならべて留任を求めたので、蕭衍は留任を許可した。さらに北中郎将に進んだ。普通4年(523年)、召還されて侍中・雲麾将軍・領石頭戍事となった。
普通5年(524年)、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史として出向した。母の董淑儀が死去すると、深く悲しんで喪に服した。蕭衍が自ら慰めて州任に留まらせようとしたが、蕭績は強く解職を求めたので、召還されて安右将軍・領石頭戍事に任じられ、まもなく護軍を加えられた。過剰な服喪のために痩せこけて行政をみることができなかった。
大通3年(529年)、在任中に病にかかって死去した。享年は25。侍中・中軍将軍・開府儀同三司の位を追贈された。諡は簡といった。
蕭績には趣味がなく、欲も少なく、下僕や妾も置かず、倹約した生活を送ったため、秩禄だけで蓄えが多くできた。死後に南康国には無記名の銭だけで数千万あった。
子女
[編集]脚注
[編集]- ^ 『梁書』巻3, 武帝紀下 大通三年閏六月己未条による。