蕭鉉
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蕭 鉉(しょう げん、建元2年(480年)- 永泰元年1月25日(498年3月3日))は、南朝斉の皇族。河東王。字は宣胤。高帝蕭道成の十九男。
経歴
[編集]蕭道成と張淑妃のあいだの子として生まれた。永明4年(486年)2月、河東王に封じられた。柳世隆の娘を妃に迎えた。隆昌元年(494年)、驍騎将軍となった。同年(延興元年)8月、南徐州刺史として出向した。ついで中書令に転じた。同年(建武元年)、散騎常侍・鎮軍将軍の位を受け、兵佐を置いた。
明帝の治世において、高帝と武帝の子孫たちは粛清におびえており、蕭鉉は朝見のたびごとに身を縮こめて俯き、平行に直視することがなかった。まもなく侍中・衛将軍に転じた。建武4年(497年)正月、蕭鉉を擁立しようとしたとの名目で王晏が処刑され、蕭鉉は免官されて王邸に蟄居させられた。永泰元年正月丁未[1](498年3月3日)、明帝の病が重くなると、蕭鉉は明帝の命により殺害された。享年は19。2人の男子が襁褓の中にあったが、やはり殺害された。
脚注
[編集]- ^ 『南斉書』巻6, 明帝紀 永泰元年正月丁未条による。