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薛貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

薛 貴(せつ き、生年不詳 - 1430年)は、明代軍人。もとの名は脱火赤。本貫大都路昌平県モンゴルの出身。

生涯

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薛台の子として生まれた。薛斌の弟にあたる。建文年間、靖難の変が起こると、薛貴は舎人として燕王朱棣の起兵に従い、しばしば王の危機からの脱出を助けた。官を歴任して都指揮使に進んだ。1410年永楽8年)、永楽帝(朱棣)の第一次漠北遠征に従い中軍都督僉事となった[1]1422年(永楽20年)9月、安順伯に封じられ、指揮使の位の世襲を認められた。1425年洪熙元年)閏7月、清平伯呉成・都督馬英・都指揮梁成らとともに軍を率いて辺境を巡回した[2]1426年宣徳元年)7月、安順侯に爵位を進められ、世券を与えられた。1430年(宣徳5年)2月、死去した。浜国公の位を追贈された。は忠勇といった。

子はなく、甥の薛山が指揮使の位を嗣いだ[3]

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻15
  2. ^ 明史』宣宗紀
  3. ^ 『明史』薛貴伝による。同書功臣世表二によると、弟の可可帖木児が指揮使の位を嗣いだとする。

参考文献

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  • 明史』巻156 列伝第44