藤井利誉
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藤井 利誉 | |
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誕生 |
1872年12月31日(明治5年12月2日) 福島県石城郡湯本村(現・いわき市) |
死没 |
1945年12月30日(72歳没) 福島県安達郡本宮町(現・本宮市) |
職業 | 教育者、官吏 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 高等師範学校文科教育学部 |
代表作 | 『教育学』(1912年) |
配偶者 | クラ(伊藤石之介三女) |
子供 | ヨシ(長女・内村省三妻)、大造(四男・太田利行養子)、鎮男(五男)、和子(三女) |
親族 | 五郎(弟・村上幹当養子)、シヅ(妹・矢島二郎妻)、暢七郎(弟)、八郎(弟) |
藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日[1](1872年12月31日) - 昭和20年(1945年)12月30日[2])は、日本の教育者。
経歴
[編集]福島県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科を卒業[1]。福島県師範学校教諭、福井県師範学校教諭、東京女子高等師範学校教授・附属小学校主事を歴任[3]。1916年(大正5年)、欧米諸国に留学[3]。帰国後、東京女子高等師範学校附属高等女学校主事に任命された[3]。1924年(大正13年)、東京市に転じ、教育局学務課長・視学課長、教育局長を歴任した[3]。
1934年(昭和9年)に退官後も帝国教育会理事を務めた[4]。
著書
[編集]- 著書・編書
- 『女子師範教科 学校管理法』 目黒書店、1910年11月
- 『女子師範教科 教育学』 目黒書店、1910年12月
- 『女子師範教科 心理学』 目黒書店、1910年12月
- 『女子 修養読本』甲種・乙種、宝文館、1911年
- 『女子 実用教育学』 宝文館、1911年2月
- 『改訂女子実用教育学』 宝文館、1913年10月訂正三版
- 『尋常小学 語法教授細案』 宇田四郎共著、宝文館ほか、1911年5月
- 『教育史教科書』 目黒書店、1911年12月
- 『新案 女子習字帖』全4巻、阪正臣書、宝文館、1912年1月
- 『新案 女子習字帖』全4巻、阪正臣書、宝文館、1913年10月訂正三版
- 『教育学』 宝文館、1912年3月
- 『簡明学修辞典』 北沢種一共編、宝文館、1927年10月
脚注
[編集]- ^ a b 大衆人事録 1939.
- ^ 福島県史第22巻 1972.
- ^ a b c d 人事興信録 1937.
- ^ 人事興信録 1943.
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第11版(下)』人事興信所、1937年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版』帝国秘密探偵社、1939年。
- 福島県編『福島県史』 第22巻、福島県、1972年。
関連文献
[編集]- 「藤井利誉氏」(畠中惣治郎著 『帝都教育家列伝』 大東京新報社、1935年7月)
- 『教育人名資料事典 第4巻』 日本図書センター、2009年3月、ISBN 9784284302722
- 新田勝彦 「藤井利誉」(福島民報社編 『福島大百科事典』 福島民報社、1980年11月)
外部リンク
[編集]- お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ - 肖像写真が閲覧できる。
公職 | ||
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先代 小林照朗 |
東京女子高等師範学校附属高等女学校主事 1922年 - 1924年 |
次代 倉橋惣三 |
先代 倉橋惣三 中村五六 |
東京女子高等師範学校附属幼稚園主事 1919年 - 1922年 1909年 - 1910年 |
次代 倉橋惣三 安井てつ |
先代 黒田定治 |
東京女子高等師範学校附属小学校主事 1909年 - 1920年 |
次代 北沢種一 |