藤原佐忠
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天延元年(973年)頃 |
官位 | 従四位上・勘解由長官 |
主君 | 朱雀天皇(判代官)→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流(魚名流) |
父母 | 父:藤原連茂、母:不詳 |
兄弟 | 佐忠、佐衡、佐氏、佐国 |
妻 | 藤原義子 |
子 | 時明、時貞 |
藤原 佐忠(ふじわら の すけただ)は、平安時代中期の貴族、歌人。藤原北家魚名流、出羽守・藤原連茂の子。
経歴
[編集]天慶8年(945年)当時六位蔵人木工助を務めている。同年12月大納言・藤原師輔に召され郡司読奏の由を奏上する。この頃木工権助に転じるか[1]。翌天慶9年(946年)には式部丞に転じ、天暦元年(947年)に入り朱雀院判代官兼肥後権守となる。
天暦3年(949年)当時中務丞を務める。天暦5年(951年)摂津守を務めており、天暦3年(949年)から天暦5年(951年)の間に従五位下に叙爵されたことが分かる。応和2年(962年)正月に右中弁となる。同年5月には歌合に出詠。応和3年(963年)頃には広平親王家別當を務めた。
康保2年(965年)大宰大弐に任ぜられ、翌康保3年(966年)赴任の由を御前で申す[2]。安和3年(970年)召還の太政官符が出され召還。当時の位階は従四位下。最終的に従四位上行勘解由長官に進む。また、時期は不明ながら因幡守を務めたという[3]。
勅撰歌人としての活躍も見られ、『拾遺和歌集』に佐忠の詠んだ和歌作品1首が残っている[4]。
官歴
[編集]- 天慶8年(945年) 8月10日:見六位蔵人木工助[5]。12月頃:木工権助?
- 天慶9年(946年) 日付不詳:式部丞
- 天暦元年(947年) 6月20日:見肥後権守[6]
- 天暦3年(949年) 6月6日:見中務丞[7]
- 時期不詳:従五位下
- 天暦5年(951年) 10月17日:見摂津守[8]
- 応和元年(961年) 日付不詳:右中弁[9]
- 応和3年(963年) 日付不詳:見広平親王家別當
- 康保2年(965年) 正月:大宰大弐[10]
- 安和3年(970年) 3月23日:召返、見従四位下[11]
- 天延元年(973年)頃:卒去(従四位上行勘解由長官[12])