藤原倫寧
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 貞元2年(977年) |
官位 | 正四位下、伊勢守 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 藤原北家長良流 |
父母 | 父:藤原惟岳、母:恒基王の娘 |
妻 | 藤原春道の娘、源認の娘 |
子 | 理能、藤原道綱母、長能、藤原為雅室、菅原孝標室 |
藤原 倫寧(ふじわら の ともやす)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、権中納言・藤原長良の孫にあたる左馬頭・藤原惟岳の子。官位は正四位下・伊勢守。
経歴
[編集]朱雀朝で中務少丞を務めたのち、村上朝初頭に右衛門少尉・右馬助と武官を歴任する。村上朝半ばには陸奥守として地方官を務めたほか、右兵衛佐・左衛門権佐にも任官している。村上朝後半に河内守に任ぜられると、円融朝では丹波守・伊勢守を務めたほか、時期は不明ながら常陸国・上総国と東国の大国の国司も歴任した。
一条堀川に住んだという。歌人として『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている[1]。本朝文粋に天延2年(974年)に倫寧が作成した奏状が一つ残っている。[2]
官歴
[編集]- 天慶4年(941年) 11月5日:見中務少丞[3]
- 時期不詳:正六位上
- 天慶9年(946年) 8月7日:見右衛門少尉[4]
- 時期不詳:右馬助[5]
- 天暦8年(954年) 10月:見陸奥守[6]
- 時期不詳:右兵衛佐[5]
- 応和年間:左衛門権佐[7]
- 応和3年(963年) 正月:河内守[8]
- 天禄元年(970年) 5月19日:見丹波守[9]
- 天延2年(974年) 12月17日:見散位従四位上[10]
- 天延4年(976年) 3月20日:見伊勢守[9]
- 貞元2年(977年) 日付不詳:卒去[5](正四位下)[11]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 菅原孝標女の生年等から推測すると、藤原倫寧の晩年の子であり、藤原道綱母とは相当年齢が離れていると思われる。