藤原光昭
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天暦9年(955年)頃 |
死没 | 天元5年4月2日(982年4月27日) |
官位 | 従四位下、左近衛少将 |
主君 | 円融天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流 |
父母 | 父:藤原伊尹、母:井殿(源信明の娘) |
兄弟 | 親賢、惟賢、懐子、挙賢、義孝、光昭、義懐、周挙、行源、藤原為光室、大納言君、藤原忠君室、藤原隆家室、藤原為光妾、為尊親王妃 |
藤原 光昭(ふじわら の みつあきら)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、摂政太政大臣・藤原伊尹の四男。官位は従四位下・左近衛少将。
経歴
[編集]円融朝初期の執政である太政大臣・藤原伊尹の庶子であったが、伊尹は天禄3年(972年)に外孫である春宮・師貞親王(後の花山天皇)の即位を見ることなく没したため、後ろ盾を失った光昭の昇進は停滞した。
円融朝にて、侍従・左近衛少将を経て、天元3年(980年)五位蔵人に補される。天元5年(982年)正月に従四位下に叙されるが、同年4月2日の午の刻に卒去。これを受けて姪の尊子内親王は落飾した[1]。
官歴
[編集]- 時期不詳:侍従
- 貞元2年(977年) 10月11日?:左近衛少将[2]
- 時期不詳:正五位下[3]
- 天元3年(980年) 正月11日:五位蔵人[3][4]
- 天元5年(982年) 正月6日:従四位下[5][3]。4月2日:卒去[6]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年
- 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年