藤原季家
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時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 正四位下、中務権大輔 |
主君 |
近衛天皇→後白河天皇 藤原聖子 |
氏族 | 藤原北家道綱流 |
父母 | 父:藤原敦兼、母:藤原顕季の娘 |
兄弟 | 実家、季兼、藤原成通室、季行、季家、兼円、仁顕、玄操、藤原顕盛室 |
妻 | 高階重子(高階敏行の娘)、藤原季兼の娘 |
子 | 敦保、季保、盛能、玄仁、尊能、女子 |
藤原 季家(ふじわら の すえいえ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家道綱流、刑部卿・藤原敦兼の四男。官位は正四位下・中務権大輔。藤原聖子(皇嘉門院)に仕える中級貴族として活動した。
経歴
[編集]藤原道綱の曾孫にあたる藤原敦兼の四男として誕生。
久安5年(1149年)以前に中務大輔に任ぜられる[1]。仁平元年(1151年)11月、禁中にて左近衛中将・藤原実長と口論をしたために恐懼に処された[2]。仁平2年(1152年)11月、近衛基実が藤原聖子(皇嘉門院)に「別当季家朝臣」を介して慶賀を申しており、皇嘉門院に別当として仕えていたことが分かっている[3]。久寿2年(1155年)7月、近衛天皇の葬送が行われた際には、藤原光隆らと共に入棺、御輿長を務めた[4]。保元2年(1157年)正四位下に叙せられる。
保元2年(1157年)10月、中務権大輔に平頼盛が任ぜられており、権大輔を辞任したと思われる[5]。また、同月までは皇嘉門院の院司としての活動が史料に見えるが、同年11月を最後に季家についての記載はなく、『尊卑分脈』によれば出家したという。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年