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藤原実光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原実光
時代 平安時代後期
生誕 延久元年(1069年
死没 久安3年5月21日1147年6月20日
改名 実光→西寂(法名)
別名 日野実光、正字:實光
官位 従二位権中納言
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇
氏族 藤原北家真夏流日野家
父母 父:藤原有信、母:藤原実政の娘
兄弟 実光宗光資経有範範綱資光、宗慶、増覚、覚秀、増実、藤原宗兼
藤原有定の娘、高階重仲の娘
日野資憲資長光成、光澄、覚海、忠玄、慶智
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藤原 実光(ふじわら の さねみつ)は、平安時代後期の公卿儒学者漢詩人歌人日野実光とも。藤原北家真夏流(日野家)、右中弁藤原有信の長男。官位従二位権中納言。日野家11代当主にあたる。

経歴

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寛治5年(1092年文章得業生になる。因幡権掾縫殿助右衛門少尉を歴任し、康和2年(1100年従五位下叙爵

勘解由次官、右衛門権佐、右少弁、防鴨河使を歴任。天仁3年(1100年)左衛門権佐に任ぜられる。周防介を兼任し、天永2年(1111年正五位下に陞叙。永久3年(1115年)左少弁に進み、保安元年(1120年近江守に任ぜられる。

勧学院別当、右中弁を歴任し、保安4年(1123年従四位上・左中弁に叙任される。天治2年(1125年)には正四位下に昇り、大治5年(1130年)右大弁となる。天承元年12月(1132年1月)参議に任ぜられて、左大弁、勘解由長官を兼ねる。翌年には美作権守も兼任。

長承3年(1134年従三位大宰大弐に叙任。保延2年(1136年)権中納言、大宰権帥に進む。保延5年(1139年正三位に昇り、保延6年(1140年)従二位に至る。

康治2年12月(1144年1月)中納言を辞し、翌年出家。久安3年(1147年)薨去。享年79。

官歴

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  • 寛治5年12月29日(1092年2月8日):文章得業生[1]
  • 寛治6年(1092年)正月25日:因幡少掾
  • 嘉保3年(1096年)正月24日:縫殿助
  • 永長2年(1097年)正月23日:蔵人
  • 承徳3年(1099年)正月22日:右衛門少尉、蒙使宣旨
  • 康和2年(1100年)正月5日:従五位下(策)
  • 康和5年(1103年)11月1日:勘解由次官
  • 長治2年(1105年)3月10日:右衛門権佐、蒙使宣旨
  • 長治3年(1106年)正月5日:従五位上
  • 嘉承元年12月27日(1107年1月22日):右少弁(佐如元)
  • 嘉承3年(1108年)3月:防鴨河使
  • 天仁3年(1110年)正月28日:左衛門権佐、周防介
  • 天永2年(1111年)正月6日:正五位下(佐労) 12月13日:昇殿
  • 永久3年(1115年)8月13日:左少弁
  • 永久5年(1117年)4月19日:蔵人
  • 保安元年(1120年)11月25日:近江守(止蔵人佐)
  • 保安2年(1121年)3月:勧学院別当
  • 保安3年12月23日(1123年1月22日):右中弁
  • 保安4年(1123年)正月6日:従四位下 11月17日:従四位上(大嘗會國司) 12月20日:左中弁
  • 天治2年(1125年)11月20日:正四位下(石清水行幸賞)
  • 大治5年(1130年)右大弁
  • 天承元年12月22日(1132年1月12日):参議 24日:左大弁、勘解由長官
  • 天承2年(1132年)正月22日:美作権守
  • 長承2年(1133年)2月22日:大宰大弐(去大弁)
  • 長承3年(1134年)正月5日:従三位(行幸松尾北野行事賞) 22日:大宰大弐
  • 保延2年(1136年)11月4日:権中納言、大宰権帥
  • 保延5年(1139年)正月7日:正三位(納言労。先年行幸稲荷祇園行事賞)
  • 保延6年(1140年)正月6日:従二位(保安二年行幸春日行事賞)
  • 康治2年12月(1144年1月):辞中納言
  • 天養元年(1144年)10月22日:出家

系譜

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甥に親鸞がいる。

脚注

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  1. ^ 以下、『公卿補任
  2. ^ 以下、『尊卑分脈