藤原忠行
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 延喜6年11月1日(906年11月19日) |
官位 | 従五位下、若狭守 |
主君 | 宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 藤原南家巨勢麻呂流 |
父母 | 父:藤原有貞、母:紀名虎の娘 |
兄弟 | 忠行、忠門、経邦、清邦、忠相、長福、藤原有実室 |
妻 | 雄風王の娘 |
子 | 維綱、維遠 |
藤原 忠行(ふじわら の ただゆき)は、平安時代前期の貴族・歌人。藤原南家巨勢麻呂流、近江権守・藤原有貞の子。官位は従五位下・若狭守。
経歴
[編集]土佐掾・掃部助を経て、宇多朝の寛平2年(890年)従五位下に叙爵し、翌寛平3年(891年)散位頭に任ぜられる。
醍醐朝の昌泰3年(900年)遠江守に任ぜられ地方官に転ずる。延喜5年(905年)刑部大輔と京官に復すが、翌延喜6年(906年)正月には若狭守として地方官に転じ、同年11月1日卒去。
人物
[編集]勅撰歌人として、『古今和歌集』『後撰和歌集』に1首ずつ和歌作品が採られている[1]。『後撰和歌集』採録の和歌から、紀友則と交際があったことが窺われる。
官歴
[編集]注記のないものは『古今和歌集目録』による。
- 仁和3年(887年) 2月2日:土佐掾
- 時期不詳:掃部助
- 寛平2年(890年) 正月7日:従五位下(諸司)
- 寛平3年(891年) 3月9日:散位頭
- 時期不詳:少納言[2]
- 昌泰3年(900年) 正月11日:遠江守
- 延喜5年(905年) 10月27日:刑部大輔
- 延喜6年(906年) 正月21日:若狭守。11月1日卒去[2]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年