コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原朝元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原朝元
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 長元4年(1031年)10月
別名 朝光
官位 従四位下陸奥守
主君 三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家小一条流
父母 父:藤原実方、母:不詳
兄弟 朝元、こそぎみ、賢尋、貞叙、義賢、菅原定義室、行資(姓不明)室
藤原通経の娘、源国挙の娘
定成、朝方、師任、師経、実時、実任、定実、成尊、源俊房
テンプレートを表示

藤原 朝元(ふじわら の あさもと)は、平安時代中期の貴族。名は朝光とも表記される。藤原北家小一条流、左近衛中将藤原実方の子。官位従四位下陸奥守

経歴

[編集]

寛弘8年(1011年)新帝三条天皇六位蔵人に補される。当時の官位は正六位上右兵衛尉

従五位下叙爵の後、長和4年(1015年和泉守に任ぜられる。朝元は蔵人を辞したのち、わずか3年ほどで受領になっていることから、この任官は三条天皇の意向によるものと想定される[1]。在任中の寛仁元年(1017年藤原教通長谷寺に参詣した際、通過した国々では接待を受けたが和泉国のみ接待を受けなかった。そのため、教通の従者が守の朝元を責め立てると、朝元は山寺で籠もってしまったという[2]

長元元年(1028年)9月の摂津守除目申文を提出するが任官は叶わず[3]、翌長元2年(1029年)正月に陸奥守に任ぜられている。位階従四位下[4]まで昇り、長元4年(1031年)10月卒去

官歴

[編集]

系譜

[編集]
  • 父:藤原実方
  • 母:不詳
  • 妻:藤原通経の娘
    • 男子:藤原定成(1014-?)
  • 妻:源国挙の娘
  • 生母不明の子女

脚注

[編集]
  1. ^ 寺内[1999: 88]
  2. ^ 小右記寛仁元年10月23日条
  3. ^ 『小右記』長元元年9月28日条
  4. ^ a b c 尊卑分脈師尹公流
  5. ^ 『権記』
  6. ^ 六位蔵人の記載を欠く『蔵人補任』同月日条に朝元の名がないため六位蔵人と分かっている。
  7. ^ 『小右記』
  8. ^ 『朝野群載』第26

参考文献

[編集]