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藤原枝良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 枝良
時代 平安時代前期
生誕 承和12年(845年
死没 延喜17年 5月27日917年6月19日
官位 従四位上参議
主君 陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原春津、母:紀御依の娘
兄弟 常氏、常仁、常数、在数、枝良、藤原文弘または藤原興邦
息長息継の娘
忠文、忠舒、忠家、忠衡
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藤原 枝良(ふじわら の えだよし)は、平安時代前期の公卿藤原式家左大臣藤原緒嗣の孫。刑部卿藤原春津の八男。官位従四位上参議

経歴

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陽成朝元慶7年(883年)に太皇太后宮少進に任官し、光孝朝末仁和3年(887年従五位下叙爵する。宇多朝では引き続き、太皇太后宮大進/亮として太皇太后藤原明子に仕える一方で、中務少輔/大輔民部少輔を歴任した。

寛平9年(897年)権右少弁次いで左少弁に任ぜられると、同年7月に醍醐天皇の即位に伴い従五位上、延喜2年(902年)右中弁、延喜3年(903年正五位下、延喜6年(906年従四位下弁官を務めながら昇進を重ねた。またこの間、昌泰3年(900年)藤原明子の崩御により太皇太后宮亮を辞す一方で、延喜4年(904年保明親王が春宮に立てられると春宮大進のち権亮を兼ねている。

延喜7年(907年弁官から修理大夫に遷るが、延喜13年(913年)従四位上・参議に叙任され、69歳にして公卿に列した。議政官として修理大輔を兼帯する傍ら、相模守・讃岐守と地方官も兼ねている。

延喜17年(917年)5月27日卒去。享年73。最終官位は参議従四位上行修理大夫兼讃岐守。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原春津
  • 母:紀御依の娘
  • 妻:息長息継の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原忠舒
    • 男子:藤原忠家
    • 男子:藤原忠衡

出典

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年