藤原枝良
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 承和12年(845年) |
死没 | 延喜17年 5月27日(917年6月19日) |
官位 | 従四位上、参議 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原春津、母:紀御依の娘 |
兄弟 | 常氏、常仁、常数、在数、枝良、藤原文弘または藤原興邦室 |
妻 | 息長息継の娘 |
子 | 忠文、忠舒、忠家、忠衡 |
藤原 枝良(ふじわら の えだよし)は、平安時代前期の公卿。藤原式家、左大臣・藤原緒嗣の孫。刑部卿・藤原春津の八男。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]陽成朝の元慶7年(883年)に太皇太后宮少進に任官し、光孝朝末の仁和3年(887年)従五位下に叙爵する。宇多朝では引き続き、太皇太后宮大進/亮として太皇太后・藤原明子に仕える一方で、中務少輔/大輔・民部少輔を歴任した。
寛平9年(897年)権右少弁次いで左少弁に任ぜられると、同年7月に醍醐天皇の即位に伴い従五位上、延喜2年(902年)右中弁、延喜3年(903年)正五位下、延喜6年(906年)従四位下と弁官を務めながら昇進を重ねた。またこの間、昌泰3年(900年)藤原明子の崩御により太皇太后宮亮を辞す一方で、延喜4年(904年)保明親王が春宮に立てられると春宮大進のち権亮を兼ねている。
延喜7年(907年)弁官から修理大夫に遷るが、延喜13年(913年)従四位上・参議に叙任され、69歳にして公卿に列した。議政官として修理大輔を兼帯する傍ら、相模守・讃岐守と地方官も兼ねている。
延喜17年(917年)5月27日卒去。享年73。最終官位は参議従四位上行修理大夫兼讃岐守。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 元慶7年(883年) 2月14日:太皇太后宮少進(太皇太后・藤原明子)
- 仁和3年(887年) 正月10日:従五位下
- 寛平5年(893年) 7月23日:兼中務少輔
- 寛平6年(894年) 8月16日:中務大輔兼太皇太后宮大進
- 寛平7年(895年) 8月16日:兼民部少輔
- 寛平9年(897年) 正月11日:兼太皇太后宮亮。2月14日:権右少弁、亮如元。6月19日:左少弁。7月13日:従五位上
- 昌泰2年(899年) 正月11日:兼讃岐守。2月11日:太皇太后宮亮
- 昌泰3年(900年) 5月23日:止太皇太后宮亮(崩御)
- 延喜2年(902年) 正月26日:右中弁
- 延喜3年(903年) 正月7日:正五位下
- 延喜4年(904年) 2月10日:兼春宮大進(春宮・保明親王)
- 延喜6年(906年) 正月7日:従四位下。3月25日:春宮権亮
- 延喜7年(907年) 正月13日:修理大夫
- 延喜9年(909年) 閏8月4日:兼相模権守
- 延喜13年(913年) 正月7日:従四位上。正月28日:参議、修理大夫春宮権亮等如元
- 延喜14年(914年) 4月22日:兼相模守
- 延喜15年(915年) 6月25日:兼讃岐守
- 延喜17年(917年) 5月27日:卒去(参議従四位上行修理大夫兼讃岐守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
出典
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年