藤原玄上
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 斉衡3年(856年) |
死没 | 承平3年正月21日(933年2月18日) |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇→朱雀天皇 |
氏族 | 藤原南家巨勢麻呂流 |
父母 | 父:藤原諸葛、母:百済王勝義の娘 |
兄弟 | 玄上、末業、善行、玄致、清和天皇更衣 |
妻 | 安倍氏の娘 |
子 | 輔仁、保明親王御息所、式明親王妃、源忠幹室 |
藤原 玄上(ふじわら の はるうら//はるかみ//くろかみ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原南家巨勢麻呂流、中納言・藤原諸葛の五男。官位は従三位・参議。
経歴
[編集]刑部丞・蔵人を経て、寛平2年(890年)備前権介に転じると、のち上総介次いで権守と宇多朝後半は地方官を歴任し、この間の寛平5年(893年)従五位下に叙爵している。
宇多朝末の寛平9年(897年)に中務少輔として京官に復帰すると、延喜4年(904年)従五位上、延喜9年(909年)に正五位下、延喜11年(911年)に従四位下と醍醐朝前半に順調に昇進を果たす。近衛中将を経て、延喜19年(919年)参議・刑部卿に任じられ公卿に列す。その後は長く議政官として刑部卿を兼帯し、この間の延長2年(924年)正四位下に叙せられている。
朱雀朝の承平2年(932年)従三位に昇進するが、翌承平3年(933年)正月21日薨去。享年78。最終官位は参議従三位行刑部卿。
人物
[編集]管絃に優れ、琵琶の名手であったとされる。また、琵琶の名器として伝承が伝わる「玄上(玄象)」は、玄上の持物であったという[1]。
官歴
[編集]『公卿補任』の記載に従う。
- 時期不詳:上野少掾
- 元慶7年(883年) 2月:刑部少丞
- 仁和2年(886年) 正月16日[2]:刑部大丞
- 仁和4年(888年) 12月15日[3]:蔵人
- 寛平2年(890年) 正月28日[4]:木工権助。3月9日[5]:木工助。4月23日[6]:備前権介
- 寛平5年(893年) 正月21日[7]:従五位下(内宴。蔵人)
- 寛平6年(894年) 9月13日[8]:下総介
- 寛平7年(895年) 8月16日[9]:下総権守
- 寛平9年(897年) 正月25日[10]:中務少輔
- 昌泰2年(899年) 正月11日[11]:少納言
- 昌泰4年(901年) 正月3日[12]:昇殿
- 延喜3年(903年) 正月11日[7]:兼大和介
- 延喜4年(904年) 正月7日[13]:従五位上
- 延喜5年(905年) 正月11日[14]:兼播磨権介
- 延喜9年(906年) 正月7日[15]:正五位下
- 延喜11年(911年) 正月7日[16]:従四位下。7月20日[17]:昇殿如元。
- 延喜12年(912年) 2月15日[18]:右馬頭
- 延喜13年(913年) 4月15日[19]:右近衛中将
- 延喜14年(914年) 正月13日[20]:兼伊予権守。9月7日[21]:中使として藤原忠平に派遣[22]。
- 延喜16年(916年) 正月:兼近江権介。3月28日[23]:左近衛権中将。
- 延喜17年(917年) 正月7日[24]:従四位上。
- 延喜19年(919年) 正月28日[25]:参議。6月3日[26]:兼刑部卿
- 延喜20年(920年) 正月30日[27]:兼近江権守
- 延喜23年(923年) 4月29日[28]:兼播磨権守
- 延長2年(924年) 正月7日[29]:正四位下。2月1日[30]:止播磨権守
- 延長3年(925年) 正月30日[31]:兼讃岐守
- 延長5年(927年) 正月12日[32]:兼近江守
- 延長9年(931年) 日付不詳:止近江守
- 承平2年(932年) 正月7日[33]:正三位。正月21日[34]:兼美濃守
- 承平3年(933年) 正月21日[35]:薨去
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『拾芥抄』
- ^ ユリウス暦では2月23日
- ^ ユリウス暦では889年1月20日
- ^ ユリウス暦では2月21日
- ^ ユリウス暦では4月2日
- ^ ユリウス暦では5月15日
- ^ a b ユリウス暦では2月11日
- ^ ユリウス暦では10月15日
- ^ ユリウス暦では9月8日
- ^ ユリウス暦では3月2日
- ^ ユリウス暦では2月24日
- ^ ユリウス暦では1月25日
- ^ ユリウス暦では1月27日
- ^ ユリウス暦では2月17日
- ^ ユリウス暦では2月3日
- ^ ユリウス暦では2月8日
- ^ ユリウス暦では8月16日
- ^ ユリウス暦では3月6日
- ^ ユリウス暦では5月23日
- ^ ユリウス暦では2月10日
- ^ ユリウス暦では9月29日
- ^ 『貞信公記』延喜14年9月7日条
- ^ ユリウス暦では5月2日
- ^ ユリウス暦では2月1日
- ^ ユリウス暦では3月3日
- ^ ユリウス暦では7月2日
- ^ ユリウス暦では2月22日
- ^ ユリウス暦では5月17日
- ^ ユリウス暦では2月14日
- ^ ユリウス暦では3月8日
- ^ ユリウス暦では2月25日
- ^ ユリウス暦では2月16日
- ^ ユリウス暦では2月15日
- ^ ユリウス暦では2月29日
- ^ ユリウス暦では2月18日
- ^ 『大鏡』第2巻,左大臣時平による。『尊卑分脈』では、式明親王室がのちに敦忠室となったとする。
出典
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年