藤原登朝
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時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 従四位上、右(左)馬頭 |
主君 | 一条天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流(兼通流) |
父母 | 父:藤原朝光、母:重明親王の娘 |
兄弟 | 姚子、朝経、登朝、相経、相任、相中、円融天皇女御 |
妻 | 藤原安親の娘 |
子 | 師経、朝命 |
藤原 登朝(ふじわら の なりあさ/なりとも)は、平安時代中期の貴族。藤原北家兼通流、大納言・藤原朝光の次男。官位は従四位上・右馬頭。
経歴
[編集]永観2年(984年)師貞親王の即位(花山天皇)に伴って、春宮大夫を務めていた父・藤原朝光に対して従一位の叙位が許されるが、朝光の譲りにより登朝が従五位下に叙爵された。その後花山朝から一条朝初頭にかけて、侍従・左兵衛佐を務め、永延2年(988年)春宮・居貞親王の春宮昇殿を、永延3年(989年)には昇殿を許されている。
永祚2年(990年)右近衛少将に任ぜられ、正暦3年(992年)五位蔵人を兼ねるが、翌正暦4年(993年)病気によって出仕できなくなり、翌正暦5年(994年)には少将および蔵人を辞任した。のち、従四位上・右馬頭(または左馬頭)に至る。
長保元年(999年)閏3月27日に北山にて出家。のち、兄の朝経に先んじて没したという[1]。
官歴
[編集]- 永観2年(984年) 10月14日:従五位下[2]
- 時期不詳:侍従
- 永延2年(988年) 8月19日:春宮昇殿(春宮・居貞親王)[3]
- 時期不詳:左兵衛佐
- 永延3年(989年) 正月15日:昇殿[3]
- 時期不詳:従五位上
- 永祚2年(990年) 10月10日:右近衛少将[4]。10月27日:禁色[3]
- 正暦3年(992年) 8月28日:五位蔵人[5]
- 正暦5年(994年) 10月:去五位蔵人(依病、自去年不仕)[5]。日付不詳:止右近衛少将[4]
- 時期不詳:従四位上。右馬頭(または左馬頭)[6]
- 長保元年(999年) 閏3月27日:出家(右馬頭)[7]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。