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藤原経平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 経平
時代 平安時代中期-後期
生誕 長和3年(1014年
死没 寛治5年7月3日1091年7月21日
別名 經平
官位 従三位大宰大弐
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原経通、母:源高雅の娘
兄弟 経仲経季経平顕家藤原範輔
高階成順の娘、藤原家業の娘
通宗通俊睦子藤原顕季室、藤原経子
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藤原 経平(ふじわら の つねひら)は、平安時代中期から後期にかけての貴族藤原北家小野宮流権中納言藤原経通の子。官位従三位大宰大弐

経歴

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後一条朝諸陵助図書助を経て、従五位下刑部少輔に叙任される。この間の長元9年(1036年)円教寺にて、侍従・藤原良貞と闘打に及んだため殿上籍を除かれている。のち、越前守尾張守播磨守後朱雀朝から白河朝前期にかけて長く受領を務めた。

承保2年(1075年大宰大弐に遷り、承暦元年(1077年)に神宗への信書と答信物を託されたの商人・孫忠に禁輸品である武器を含む私的な贈物をも舶載させた[1]。承暦2年(1078年)、孫忠は再来日し、宋からの回贈品を運んできたが、付属の文書に不審点があり、孫忠は経平と後任の大宰帥藤原資仲から尋問を受け、承暦4年(1080年)に回贈品への対応について陣定で審議された[2]。この際、孫忠が経平とその郎党唐物を料金を払われずに取られたことと前述の私的な贈物の件を告発したため、このことも陣定で議論された[3]。結局経平は不問とされたものの、大宰府赴任の功により従三位に叙せられて公卿となるのは応徳3年(1086年)まで遅れることとなった[4]

その後は散位となり、寛治5年(1091年)7月3日薨去享年78。最終官位は前大宰大弐従三位。

後年、娘・睦子が産んだ藤原苡子鳥羽天皇の生母となったため、経平は天皇の曾祖父となっている。

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 渡邊(2023) pp. 124, 130
  2. ^ 渡邊(2023) pp. 128-129, 136
  3. ^ 渡邊(2023) pp. 130, 136
  4. ^ 渡邊(2023) pp. 140
  5. ^ 小右記』長元4年3月29日条
  6. ^ a b 『左経記』
  7. ^ 『春記』
  8. ^ 『栄花物語』巻38
  9. ^ 『公卿補任』長治元年藤原顕季条
  10. ^ 『弁官補任』藤原通俊条
  11. ^ 『勘例』
  12. ^ 『公卿補任』
  13. ^ 『大記』

参考文献

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