出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 綱手(ふじわら の つなて、8世紀 - 天平12年11月1日(740年11月24日))は、奈良時代の廷臣・武人。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の四男(あるいは五男)。無官位、一説に内舎人。
生年は霊亀2年(716年) - 養老6年(722年)頃と推測されている。天平12年(740年)北九州において長兄藤原広嗣の反乱に加わり、筑後国・肥前国等の5000の兵を率いて豊後国から進軍する[1]。しかし乱は大野東人率いる官軍によって敢えなく鎮圧され、捕虜となった綱手は、同年11月1日に肥前国松浦にて広嗣ともども誅殺された[2]。(藤原広嗣の乱)
- ^ 『続日本紀』天平12年10月9日条
- ^ 『続日本紀』天平12年11月5日条
- ^ 宇治谷[1995: 402]