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藤原興親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原興親
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永正5年12月8日1508年12月29日
別名 通称:四郎[1]
戒名 笑岩[2]
墓所 洞雲寺[注 1]
主君 大内義興
氏族 厳島神主家
父母 父:藤原教親、母:寿慶(法名)[4]
兄弟 宗親興親
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藤原 興親(ふじわら おきちか)は、戦国時代の武将。厳島神主家の当主。教親の次男。厳島神主であった兄宗親が、父教親の実家である長屋氏を相続したため、神主職に就任した[5]

生涯

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興親の兄宗親は明応2年(1493年)3月までは神主に在任しているので[注 2]、興親の神主就任はこれ以後とみられる。なお父教親は、高齢ながら永正元年(1504年)12月15日までは存命していた[注 3]

上洛

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永正5年(1508年)2月、興親は厳島から乗船して海路上洛した。大内義興の支援を受けて帰洛しようとしていた足利義稙の供をするためだった[1]。上洛後の7月5日に長安久を大御前棚守職に、7月8日に野坂才菊を舞師にそれぞれ補任しているが[8]、その年の12月8日、京都において病没した[1]。興親に子は無く、厳島神主家は後継者不在の状況に陥った。

死後

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興親が没した際、親族の友田興藤小方加賀守も在京していたが、国元では神領衆が東方と西方の二派に分裂しての抗争が勃発した[1]。東方は宍戸治部少輔らが桜尾城に立て籠もり、西方は新里若狭守らが藤懸城に立て籠もって数年合戦に及んだという。その後、京都から帰還した武田元繁が東方に加勢して神領に侵攻するなど、周辺諸勢力の介入を受けながら永正14年(1517年)頃まで抗争が続くことになる[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 洞雲寺10世の梅庵賢達穂井田元清を通じて毛利輝元に提出した寺領免田のリストには、笑岩(興親の法名)の位牌免として「坪井之内薬師寺分五貫七百目」とある。その他、寿慶(興親の母の法名)、友田興藤、順覚(藤原宗親の法名)の位牌免がみえる[3]
  2. ^ 明応2年(1493年)3月23日、宗親は洞雲寺に寺領を寄進している。足利義政義尚父子の位牌を同寺に置き、併せて既に出家していた父母の菩提所とするためだった。[6]
  3. ^ 教親は明応2年(1493年)時点で既に出家し、徳叟教文という法名を名乗っていた。永正元年(1504年)12月15日、教文(教親)は洞雲寺に病気平癒を祈願して寄進を行っている。なお教親は文安元年(1444年)には神主に在任していた。[7]

出典

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  1. ^ a b c d 廿日市町 1979, p. 504- 「房顕覚書」
  2. ^ 廿日市町 1988, p. 458.
  3. ^ 廿日市町 1979, p. 595-「洞雲寺文書」
  4. ^ 廿日市町 1988, p. 466.
  5. ^ 廿日市町 1988, p. 378.
  6. ^ 廿日市町 1979, p. 565-「洞雲寺文書」
  7. ^ 廿日市町 1979, p. 566-「洞雲寺文書」
  8. ^ 廿日市町 1979, p. 115–116-「野坂文書」
  9. ^ 廿日市町 1988, p. 380–382.

参考文献

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  • 廿日市町 編『廿日市町史』《資料編1(古代中世)》廿日市町、1979年。 
  • 廿日市町 編『廿日市町史』《通史編上》廿日市町、1988年。