藤原良尚
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 弘仁9年(818年) |
死没 | 貞観19年3月10日(877年4月26日) |
官位 | 従四位上、右兵衛督 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇 |
氏族 | 藤原南家巨勢麻呂流 |
父母 | 父:藤原春継、母:坂上盛の娘 |
兄弟 | 良尚、広基、真宗 |
妻 |
菅野高年の娘 藤原秋緒の娘 滋野氏 |
子 | 菅根、当幹、真興、顕相、真能守 |
藤原 良尚(ふじわら の よしひさ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の曽孫。常陸介・藤原春継の子。官位は従四位上・右兵衛督。
経歴
[編集]文徳天皇が即位した嘉祥3年(850年)に右近衛権将監に任ぜられる。のち右近衛将監・大和権大掾・蔵人を経て、斉衡2年(855年)従五位下・右近衛少将兼大和介に叙任されるなど、文徳天皇に近習として仕える。斉衡3年(856年)上総権介として地方官に転任する。
清和天皇即位後まもない貞観元年(859年)正月に左近衛少将として京官に復帰する。貞観2年(860年)近江権介を兼ねる。同年、母の喪に服して官職を辞すがまもなく本官に復帰し、11月には従五位上に叙せられる。貞観8年(866年)正五位下、貞観11年(869年)従四位下・右近衛権中将と武官を務めつつ累進し、貞観17年(875年)従四位上・右兵衛督に至った。
貞観19年(877年)3月10日卒去。享年60。最終官位は従四位上行右兵衛督兼相模守。
父の春継は、祖父の黒麻呂とともに開発した藻原荘に住み生涯を終えたが、墓所の保全のため藻原荘を興福寺に施入するよう遺言していた。しかし、良尚も遺言を果たさず急死したため、寛平2年(890年)に子の菅根らが興福寺に施入した[1]。
人物
[編集]武芸を好み腕力が人並み外れて強く、非常に胆力もあった。また、容姿も美しかったという[2]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 嘉祥3年(850年) 日付不詳:右近衛権将監
- 時期不詳:右近衛将監。蔵人
- 仁寿4年(854年) 日付不詳:兼大和権大掾
- 斉衡2年(855年) 正月7日:従五位下。正月15日:右近衛少将兼大和介
- 斉衡3年(856年) 9月27日:上総権介
- 貞観元年(859年) 正月13日:左近衛少将。3月22日:兼上総権介
- 貞観2年(860年) 正月16日:近江権介。3月29日:賜右京一條三坊地1町。日付不詳:辞官(母服喪)。日付不詳:復本官。11月16日:従五位上
- 貞観3年(861年) 2月25日:兼近江介
- 貞観8年(866年) 正月7日:正五位下
- 貞観10年(868年) 正月16日:兼備前権守
- 貞観11年(869年) 正月7日:従四位下。12月13日:右近衛権中将
- 貞観12年(870年) 正月25日?:止備前権守[3]
- 貞観15年(873年) 正月13日?:右近衛中将[3]
- 貞観17年(875年) 正月7日?:従四位上[3]。正月13日:兼相模守。8月15日?:右兵衛督[3]
- 貞観19年(877年) 3月10日:卒去(従四位上行右兵衛督兼相模守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』戎光祥出版、2009年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
- 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』 角川書店、1984年、ISBN 4-04-001120-1
- 市川久編『近衛府補任』続群書類従完成会、1992年