藤原隆時
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時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 嘉承元年(1106年) |
官位 | 正四位下、因幡守 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家良門流 |
父母 | 父:藤原清綱、母:平貞盛の娘 |
兄弟 | 隆時、隆能、忠清、隆重、清仁 |
妻 | 藤原貞職の娘 |
子 | 清隆、範隆、増隆 |
藤原 隆時(ふじわら の たかとき)は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家良門流、右衛門佐・藤原清綱の子。藤原兼輔の末裔。官位は正四位下・因幡守。
経歴
[編集]六位蔵人を経て、白河朝末の応徳3年(1086年)従五位下に叙爵。翌寛治元年(1087年)因幡守、寛治6年(1093年)但馬守と受領を歴任する一方、この間の寛治2年(1088年)従五位上、寛治7年(1094年)従四位上と昇進し、嘉保2年(1095年)正四位下至った。また、高階為章と並ぶ白河院の寵臣で、院判官代のち院別当も務めた。
康和4年(1102年)近江守に任ぜられるが、翌康和5年(1103年)因幡守・平時範と官職を入れ替えられ、隆時は因幡守に遷った。嘉承元年(1106年)9月に引き続き因幡守に現任にあったが、同年中に卒去したとみられる。
人物
[編集]中御門富小路に邸宅を有したが[1]、受領を歴任して富裕であり、邸宅内には5棟の蔵があったという[2]。勅撰歌人として『新古今和歌集』に1首の和歌作品が入集している[3]。
官歴
[編集]- 時期不詳:六位蔵人
- 応徳3年(1086年) 日付不詳:叙爵(従五位下)
- 寛治元年(1087年) 3月18日:見因幡守[4]
- 寛治2年(1088年) 正月19日:従五位上(行幸院別當賞)、見院判官代[5]
- 寛治4年(1090年) 5月4日:見因幡守[6]
- 寛治6年(1093年) 日付不詳:但馬守[7]。5月21日:見但馬守[8]
- 寛治7年(1094年) 正月3日:従四位上、見院別当[5]
- 嘉保2年(1095年) 正月2日:正四位下[5]
- 永長2年(1097年) 8月21日:見但馬守[5]
- 康和4年(1102年) 正月23日:近江守[9]
- 康和5年(1103年) 11月1日:因幡守[10][5]
- 嘉承元年(1106年) 9月2日:見因幡守[5]。日付不詳:卒去[3][11]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:藤原清綱
- 母:平貞盛の娘
- 妻:藤原貞職の娘
- 男子:藤原清隆(1091-1162)
- 男子:藤原範隆
- 生母不詳の子女
- 男子:増隆