コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原頼任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 頼任
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 長元3年(1030年)7月
改名 公信(初名)→頼任
官位 従四位上右中弁
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家魚名
父母 父:藤原時明、母:藤原忠君の娘
藤原済家または伊勢守清家(姓不詳)の娘
隆経、良経
テンプレートを表示

藤原 賴任(ふじわら の よりとう)は、平安時代中期の貴族藤原北家魚名流、山城守藤原時明の子。初名は公信官位従四位上右中弁

経歴

[編集]

一条朝寛弘年間(1004年-1012年)初頭に文章生を経て、五位蔵人内記を務める。三条朝では検非違使右衛門権佐を務めたほか、中宮権大進として中宮藤原妍子にも仕え、この間の長和2年(1013年従五位上に叙せられている。

後一条朝では皇太后となった藤原妍子に皇太后宮権大進/亮として引き続き仕える一方で、寛仁元年(1017年)ごろ丹波守に任ぜられる。寛仁3年(1019年)6月に丹波国の百姓らが陽明門の前に立って頼任の不正行為を訴えたため、頼任は「騎馬兵」を使って百姓らを追捕したが[1]、このために頼任は藤原道長頼通父子から叱責を受けた[2]。7月に入ってこの事件への対処のためか、頼任は丹波国へ下向している[3]。9月に入ると今度は丹波国の百姓ら数100人が陽明門において、頼任の善政を訴えるとの挙動に出ている[4]

治安元年(1021年美濃守として再び地方官に任ぜられると、万寿2年(1025年)まで務め上げ、同年12月に治国の功労により加階を申請されて[5]、その後従四位上に叙せられたか。長元2年(1029年散位から右中弁に直任されている。

長元3年(1030年)7月卒去

官歴

[編集]

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原時明
  • 母:藤原忠君の娘
  • 妻:藤原済家または伊勢守清家(姓不詳)の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:良経

脚注

[編集]
  1. ^ 小右記』寛仁3年6月20日条
  2. ^ 小右記』寛仁3年6月21日条
  3. ^ 小右記』寛仁3年7月11日条
  4. ^ 『左経記』寛仁3年9月23日条
  5. ^ 『小右記』万寿2年12月19日条
  6. ^ a b 『権記』
  7. ^ a b c d 『御堂関白記』
  8. ^ a b c d e 『小右記』
  9. ^ 『左経記』
  10. ^ a b 『弁官補任』

参考文献

[編集]