藤山治一
人物情報 | |
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生誕 |
文久元年3月2日(1861年4月11日) 佐賀藩 |
死没 |
1917年5月13日(56歳没) 東京都 |
出身校 | 駒場農学校 |
学問 | |
時代 | 江戸時代、明治、大正 |
研究分野 | ドイツ語 |
研究機関 | 陸軍大学校、早稲田大学など |
主要な作品 | シーボルト研究など |
藤山 治一(ふじやま はるかず、文久元年3月2日(1861年4月11日) - 1917年5月13日)は、肥前国 佐嘉郡(現在の佐賀県 佐賀市)出身の佐賀藩士。近代日本のドイツ語学者[1][2]。
生涯
[編集]佐賀藩士族、藤山家に生まれる。父は藤山治明、母は絹[2]で、絹は後に鍋島朗子の乳母を務めた[2]。1873年に旧佐賀藩が費用を負担して国内留学生を50名送り出す事になり、これに選ばれて治明とともに東京に移る[2]。有馬学校で英語を学んだ後、1878年2月に駒場農学校の獣医科に入って首席となっている[3]。東京での生活費は絹が負担しており、官費生となるために農学校にすすんだという[2]。在学中は毎週日曜に鍋島邸に通い、鍋島直映の相手を務めた[3]。
1880年2月に農学校を卒業し、同年4月から鍋島家の給費生として佐野常実(佐野常民の息子)、牧亮四郎とともにドイツに留学した[3]。ベルリン大学への入学までドイツ語を学んでいたが、イェーナ大学への入学後に佐野が病を得たため見舞いに行き、そのまま亡くなったため葬儀を手配している[3]。同年11月17日にベルリン大学に入り農業経済学を学んだが、動植物学に興味がわき1881年12月22日に退学してボン大学に移った[3]。この事を知ったドイツ駐在公使の青木周蔵に帰国を命じられたが、旅費600円を受け取ってそのままボン大学に通い続け、それが知られて鍋島家からの学費支給が止められている[3]。留学生から借金を重ねて自殺を考えるほど困窮し、見かねた書記官の丹羽龍之助が日本に連絡して絹ら旅費が送られ、1883年10月にドイツを発って帰国することができた[3]。
1884年3月に東京外国語学校の御用係となり、同年12月には農商務省と東京山林学校の御用係になっている[3]。同じ頃に獨逸学協会学校の動植物学教員を委嘱され、さらに1885年には東京大学予備門の教師に就いた[3]。1887年に陸軍教授として陸軍大学校に赴任すると、メッケル達ドイツ人教官の通訳を遠藤慎司らとともに務めている[4]。1889年には日本人による初めての本格的な シーボルト論となる論文を『Von West Nach Ost』に発表した[5]。参謀旅行に14回以上参加した他、1894年には日清戦争に従軍する[6]など通訳としても精力的に活動した。
1895年に東京専門学校のドイツ語教授となり、1896年から1897年にかけて2回目のドイツ留学をした[7]。1899年には同僚の高田善次郎とともに『独和兵語辞書』を編纂した[8]。1902年に早稲田大学に改称されると、その初代ドイツ語教授となっている[9]。また、翻訳を担当したコルマール・フォン・デア・ゴルツの『戦争及統帥』が1906年に出版された[8]。
1917年5月13日に急性腹膜炎のため逝去し、青山霊園に埋葬された[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 上村直己「明治期ドイツ語学者の研究」九州大学 博士 (文学), 乙第7692号、2004年、NAID 500000259606。
- 上村直己『明治期ドイツ語学者の研究』多賀出版、2001年。ISBN 4811561317。 NCID BA54080324。
- 上村直己「藤山治一とメッケル将軍」『九州の日独文化交流人物誌』第1巻、熊本大学、2005年、17-20頁、NCID BA91879998。
- 廣田稔「藤山治一のドイツ語シーボルト論事情 : ハンス・ヨアヒム・クナウプ氏の論考を基に」『言語文化論究』第16巻、九州大学大学院言語文化研究院、2002年7月、53-64頁、doi:10.15017/5478。