藤沢カントリー倶楽部
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藤沢カントリー倶楽部 | |
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所在地 |
日本 神奈川県藤沢市 |
概要 | |
開業 | 1932年 |
運営 | 藤沢ゴルフ株式会社 |
設計 | 石井光次郎、堀米庸之介、田中善三郎、赤星四郎 |
所有者 | 藤沢ゴルフ株式会社 |
運営者 | 藤沢ゴルフ株式会社 |
トーナメント | 日本プロゴルフ選手権大会(1933年) |
コース | |
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その他 | |
1943年に閉鎖 |
藤沢カントリー倶楽部(ふじさわカントリーくらぶ)は、かつて神奈川県藤沢市にあったゴルフ場。
概要
[編集]昭和初期の不況対策の一環で設立された。
クラブハウスは、アントニン・レーモンド設計で、屋根瓦が緑色だったことから「グリーンハウス」と呼ばれ、神奈川県立体育センター合宿所として現存。
女性専用コース「メリーゴルフ倶楽部」が、一時期併設された。
藤沢ゴルフ株式会社が、当時の藤沢町御殿山(現在の藤沢市善行)に191,709坪の土地を497,590円で買収し、石井光次郎、堀米庸之介、田中善三郎、赤星四郎(赤星六郎の兄)をコース建設委員とし、セント・アンドリュースを設計したゴルフコース設計者チャールズ・ヒュー・アリソンにも意見を求めコースを建設した。
東久邇宮稔彦王、岩崎小彌太、近衛文麿、大仏次郎、鈴木三郎助などがプレーし、日本有数のチャンピオンコースでもあった。
歴史
[編集]- 1930年(昭和5年)3月19日 - 横浜の政財界人により、藤沢ゴルフ株式会社設立発起人会が開かれる。
- 4月 - 藤沢ゴルフ株式会社設立(資本金50万円)。株主のみを会員として藤沢カントリー倶楽部が発足。
- 9月 - 杉山雅則(レーモンド設計事務所)が設計を開始。
- 1931年(昭和6年)2月 - チャールズ・ヒュー・アリソンが実施踏査の上、コース設計に対して意見具申。
- 3月 - 設計が完了。
- 5月 - 起工。藤沢町の長工務所が建設。
- 10月18日 - 9ホール仮オープン。
- 1932年(昭和7年)4月 - 竣工。
- 1933年(昭和8年)10月2日 - 10月4日 - 日本プロゴルフ選手権大会が行われる。
- 1934年(昭和9年)11月16日 - ベーブ・ルースが、赤星四郎とともにプレイする。
- 1937年(昭和12年) - 関東クラブ対抗競技が行われる。
- 1938年(昭和13年)10月11日-10月13日 - 日本オープンゴルフ選手権競技が開催される。
- 1943年(昭和18年)10月24日 - 閉鎖する。
- 後に、同地周辺は藤沢海軍航空隊となり、戦後は藤沢商業高等学校(現:藤沢翔陵高等学校)や、神奈川県立スポーツセンターなどが建設され、東京五輪でのサッカー日本代表合宿に使用された。
外部リンク
[編集]- 文書館だより12号 - 藤沢市文書館
- 旧藤沢ゴルフクラブクラブハウス - 横浜近代建築アーカイブクラブ
- 旧藤沢ゴルフ倶楽部 - ウェイバックマシン(2007年12月26日アーカイブ分)[リンク切れ] - 風呂屋の煙突