藤田達芳
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藤田 達芳(ふじた たつよし、1858年8月7日(安政5年6月28日[1][2])- 1923年(大正12年)6月21日[1][3][4])は、明治から大正期の日本の実業家・政治家。衆議院議員。塩業功労者[1]。旧姓・小野。
経歴
[編集]伊予国新居郡松神子村[1](愛知県[3]新居郡松神子村、神郷村[4]を経て現新居浜市松神子)で、小野甚三郎の三男として生まれた[1]。幼時に新居郡郷村(現:新居浜市)多喜浜塩田支配人の一人、藤田五郎[注釈 1]の養子となる[1]。泉川の遠藤石山に師事し漢学を修めた[1]。その後、大阪で数学を学び詩文に親しみ[1]、1889年(明治22年)東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業して帰郷した[1][3][4]。
1893年(明治26年)多喜浜東浜産塩会社の設立に参画して重役となり[1]、終生、塩業と係わった[1]。その後、三喜浜食塩骸炭製造合名会社業務執行社員を務めた[2][3][4]。
政界を志し立憲改進党に入党[1]。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区)で当選[1][5]。対清強硬論を主張し[1]、日清講和会議(参照下関条約)で伊藤博文の随員を務めたが[1]、病のため衆議院議員に1期在任して引退した[1][3][4]。
1897年(明治30年)児玉源太郎台湾総督の要請で、台湾で塩業調査を実行し[1]、塩田国有論を主張して[1]、1905年(明治38年)塩専売法(法律第11号)の成立に貢献した[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区、1892年2月、無所属)落選[6]
- 第3回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区、1894年3月、立憲改進党)次点落選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区、1894年9月、大手倶楽部)当選[5]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『人事興信録 第4版』ふ13頁では吾郎。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。