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蘆田作内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蘆田 作内(あしだ さくない、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。

略歴

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宇喜多家の家臣・蘆田右馬允の子。

宇喜多秀家に仕え、美作国都我布呂城(つかぶろじょう)800石を領した。

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いに従軍するが宇喜多軍は敗北、自身は隠遁した。

慶長19年(1614年大坂の陣が起きると、大坂に入城し豊臣軍として戦った。

旧宇喜多家老であった明石全登[1]配下として戦った。

落城後の行方は不明で、全登と共に討死・逃亡した[2]米田是季塙団右衛門横井治右衛門山内権三郎らと討死を遂げたとも伝わる[3]

なお、後者は米田是季の生存が判明しているため、前者・特に逃亡説が強い。

脚注

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  1. ^ 大西 2015, p.127
  2. ^ 討死については、大西 2015, p.128‐『徳川実紀』 福本 1921, p.335‐『土屋知貞私記』『石川家中留書』 『大坂御陣覚書』『大坂記』『石川家中留書』。 逃亡については、『大村家譜』『山本豊久私記』『戸川家譜』『武家事紀』。
  3. ^ 「敗者の日本史--大坂の陣と豊臣秀頼」

参考資料

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「戦国人名事典 コンパクト版」