虎ノ門大坂屋砂場
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虎ノ門大坂屋砂場 | |
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店舗概要 | |
所在地 |
〒105-0001 東京都港区虎ノ門1丁目10番6号 |
座標 | 北緯35度40分5.63秒 東経139度45分2.49秒 / 北緯35.6682306度 東経139.7506917度座標: 北緯35度40分5.63秒 東経139度45分2.49秒 / 北緯35.6682306度 東経139.7506917度 |
開業日 | 月曜日 - 土曜日 |
閉業日 | 日曜日、第3土曜日、祝祭日、振替休日 |
正式名称 | 虎ノ門大坂屋砂場 |
施設所有者 | 株式会社稲垣 |
営業時間 |
月・火曜日 午前11時 - 午後8時 水・木・金曜日 午前11時 - 午後9時30分 土曜日 午前11時 - 午後2時 |
駐車台数 | 0台 |
前身 | 琴平町砂場 |
最寄駅 |
JR山手線新橋駅 東京メトロ銀座線虎ノ門駅 東京メトロ千代田線霞ケ関駅 都営三田線内幸町駅 |
最寄IC | 首都高速霞が関出入口 |
外部リンク | https://www.toranomon-sunaba.com/ |
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒105-0001 東京都港区虎ノ門1丁目10番6号 |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 7010401003115 |
事業内容 | そば店の運営 |
外部リンク | https://www.toranomon-sunaba.com/ |
虎ノ門大坂屋砂場(とらのもんおおさかやすなば)は、東京都港区虎ノ門一丁目にある1872年(明治5年)創業のそば屋。老舗蕎麦屋の加盟する木鉢会[3]、芝地区の老舗店の加盟する芝百年会[4]に加盟している。
概要
[編集]1872年(明治5年)、尾張国(現・名古屋地方)出身の稲垣音次郎が、そば屋で砂場本家「糀谷七丁目砂場藤吉」の暖簾分けにより、琴平町(現・虎ノ門一丁目)に「琴平町砂場(後の虎ノ門大坂屋砂場)」を創業したのが始まり。稲垣音次郎の妻・よそは、徳川家と縁の深かった武家・刈谷家の娘で、父は鍋島藩の剣術指南役だったが、御前試合で負けた相手から逆恨みされ闇討ちにあい命を落とし、その時、養女として「糀町七丁目砂場藤吉」に預けられた。
「琴平町砂場」の店舗は、旧大名家・阿部氏の敷地の一部を譲り受けるなど、武家との縁が深かった。創業当初は、幕末、明治の剣術家の山岡鉄舟、高橋泥舟、勝海舟の三舟らにひいきにされ、書が残されている。現在の店舗は、1923年(大正12年)の 関東大震災直前に建てられた建物である[5]。
「砂場」の名は、豊臣秀吉が大坂城を築いたとき、大坂の和泉屋という菓子屋が、資材の砂置き場に蕎麦屋を開店し、「砂場」と呼ばれていたのに始まる。徳川家康が江戸城を築くときは、江戸に進出し糀町(現・麹町)に店を構えた。「虎ノ門大坂屋砂場」の「大坂屋」は、本店からもらった屋号である。
五代目の稲垣隆一は136店が加盟する暖簾会「砂場会」の会長を務めた[6]。2020年現在、六代目の稲垣隆俊が店主を務めている[7]。
沿革
[編集]- 1583年(天正11年) - 豊臣秀吉が大阪城築城に着手。
- 1629年(寛永6年) - 大阪城が完成した後、砂場跡地一体帯を整備した新町に、官許の遊郭が建設され、新町遊郭は江戸・吉原 (東京都)、京都・島原 (京都)、と並び称される一大遊里となる。
- 1730年(享保15年) - 『絵本御伽品鏡』、長谷川光信画、千草屋新右衛門、享保15年(1730年)には、「いづミや」という暖簾を掛けた麺類屋がある、当時の大坂市中の名物を狂歌とともに紹介した絵本である[8]。
- 1757年(宝暦7年) - 『大坂新町細見之図澪標』、「廓名物之分」、宝暦7年(1757年)には、大阪城築城のさいの、資材の砂や砂利の置き場になった新町砂場地域には、「和泉屋」と「津国屋」の2軒の麺類屋があった[9]。細見とは、江戸・吉原の妓楼や遊女名、玉代などを事細かに記した遊郭案内書[10]。「和泉屋」と「津国屋」の初代は、どちらも和泉国(現・大阪府南部)の出身である。
- 1777年(安永6年) - 『富貴地座位』、安永6年(1777年)には、三都(京・江戸・大坂)の名物を紹介しており、浪花名物の「和泉屋」について記している。
- 1798年(寛政10年) - 『摂津名所図会』、寛政10年(1798年)には、「砂場いづみや」として挿絵入りで紹介している[1]。挿絵は店の表口の様子と店内の光景をで、いかにも大店らしい立派な構えで、牡蠣殻葺きの庇の下には「すな場」と染め抜かれた暖簾がかけられている。店内は広大な土間に座敷の島がいくつも置かれ、座敷の間の通路は町中の往来のように広い。店の裏側には、鰹節の蔵、そばの蔵、麦の蔵、醤油の蔵に、臼十二と書かれた臼部屋がある[10]。
- 1849年(嘉永2年) - 『二千年袖鑒』、伊豫屋善兵衛、嘉永2年(1849年)には、「津国屋」の外観を描いた挿絵がある、牡蠣殻葺きの庇の下に「すなば」と書かれた暖簾がかけられている[2]牡蠣殻葺きは享保頃(1716年-1736年)から江戸や大坂などの町屋で防火上用いられた、店構えは「和泉屋」の表口の様子と似ている[10]。
- 1869年(明治2年) - 後の初代・琴平町砂場(現・虎ノ門大坂屋砂場)女将・よそ、「糀町七丁目砂場藤吉」に養女として預けられる。
- 1872年(明治5年) - 「糀町七丁目砂場藤吉」から暖簾分けされ、初代・稲垣音次郎「琴平町砂場」が創業。稲垣音次郎は名古屋地方の出身で、妻・よそは、徳川家とも縁が深かった刈谷家の娘で、父は鍋島藩の剣術指南役だったが、御前試合で逆恨みされ闇討ちにあい命を落とし、その時、養女として「糀町七丁目砂場藤吉」に出された。「琴平町砂場」の店舗は、旧大名家・阿部氏の敷地の一部を譲り受け、武家との縁が深かった。
- 幕末期、虎ノ御門の外堀前は幕府の御用屋敷で、南側には丸亀藩主・京極佐渡守の上屋敷があり、敷地内には金刀比羅大権現が祀られていた。金刀比羅宮は1660年(万治3年)四国の琴平から勧請し、文化年間(1804年-1818年)から一般参詣が許された。
- 1902年(明治35年) - 「琴平町砂場」店舗2階に、明治35年1月の日付の、初代・稲垣音次郎の家憲の額があり、代々、跡継ぎがこの部屋で寝起きすることになっている。
人に貸すことなかれ。人に借りることなかれ。唯一心に勤め励美て家門を思ふべし。 — 琴平町砂場 稲垣音次郎 明治35年1月より[11]
- 1908年(明治41年) - 「琴平町砂場」初代・稲垣音次郎死去。(後の二代目・音次郎、三代目・一男)
- 1923年(大正12年) - 現在の店舗は、関東大震災直前に建てられた木造一部3階建で、大正時代の面影を残す2階の欄干・銅葺き庇、大地震にもびくともしなかった。戦時中、この地域は空襲の被害が比較的に少なかった、近くで火の手が上がっても、皇居の消防隊が宿舎として提供していたため延焼を免れた。
- 1933年(昭和8年) - 「砂場長栄会」を結成。
- 1938年(昭和13年) - 後の「虎ノ門大坂屋砂場」五代目・稲垣隆一生まれる。
- 1955年(昭和30年)11月 - 「砂場長栄会」から暖簾会「砂場会」に受継がれ、会長「虎ノ門大坂屋砂場」稲垣一男、副会長「南千住砂場」長岡源太郎、ほか2名、相談役「巴町砂場」萩原長康と「室町砂場」村松茂となる。
- 1956年(昭和31年)11月1日 - 「砂場」と「すなば」の商標登録が正式に認可、会員数は28軒。その後、商標登録は「す奈ば」、「寿那ば」、「寿奈ば」が加えられた。
- 1977年(昭和52年) - 琴平町が住居表示の変更により「虎ノ門一丁目」となり、店名が「虎ノ門大坂屋砂場」と改称。「大坂屋」と名乗っているのは、江戸の名店「糀町七丁目砂場」の暖簾分したことを表している。
- 1975年(昭和60年)3月 - 大阪新町南公園に「ここに砂場ありき」の石碑が建立され、二代目会長「巴町砂場」萩原長昭ほか出席し除幕式[12] 。
- 1988年(昭和63年) - 「虎ノ門大坂屋砂場」四代目・稲垣一男死去。五代目・稲垣隆一が継ぐ、三代目・一男の教えは、「つゆだけは自分でつくること。そばは板前(そば打ち専門の職人)に任せてもいいが、つねに目を光らせていなければならない。」だった。店の味としてのつゆを大切にするのは、江戸そばの伝統である。
- 1994年(平成6年) - 建物の改修工事が行われた。
- 2007年(平成19年) - 建物の改修工事が行われた[10]。
- 2020年(令和2年) - 都道「愛宕下通り」の道路拡幅工事により8月から虎ノ門の店舗をいったん閉店[7]。9月から一時的に港区西新橋1-10-1の仮店舗で営業していた[7]。道路拡幅工事により虎ノ門の店舗は曳家され約4メートル移動した[7]。
登録有形文化財(建造物)
[編集]- 虎ノ門大坂屋砂場店舗
- 1923年(大正12年)建築、1994年(平成6年)・2007年(平成19年)改修:木造2階建、瓦葺、建築面積:70m2[13]。
- 登録年月日:2011年(平成23年)7月25日、種別:産業3次、登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの。
交通アクセス
[編集]- 鉄道
ギャラリー
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 『摂津名所図会』、秋里籬嶌著、竹原春朝齋図画、森本太助、寛政10年(1798年)
- ^ a b 『二千年袖鑒』、伊豫屋善兵衛、堀田両平氏寄贈、嘉永2年(1849年)
- ^ 虎ノ門大坂屋砂場 木鉢会 2023年7月11日閲覧。
- ^ 虎ノ門大坂屋砂場 芝百年会 2023年7月11日閲覧。
- ^ 木鉢会 - 虎ノ門大坂屋砂場
- ^ 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「砂場の系図」、光文社、2011年(平成23年)7月20日
- ^ a b c d “老舗そば店「砂場」が数メートルのお引っ越し 開発ラッシュの虎ノ門、道路拡幅で”. 東京新聞. 2020年12月17日閲覧。
- ^ 『絵本御伽品鏡』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 長谷川光信画、千草屋新右衛門、享保15年(1730年)、2016年4月11日閲覧
- ^ 『大坂新町細見之図澪標』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 靖中菴畫、「廓名物之分」、和泉屋卯兵衞、宝暦7年(1757年)、2016年4月11日閲覧
- ^ a b c d 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「砂場の系図」、光文社、2011年(平成23年)7月20日、2016年2月20日閲覧
- ^ 岩崎信也著、『蕎麦屋の系図』、「砂場の系図」、光文社、2011年(平成23年)7月20日、2016年2月20日閲覧
- ^ 「老舗そば屋の碑 江戸のツルッ 大阪生まれ」 - 朝日新聞、2011年(平成23年)5月11日、2016年4月10日閲覧
- ^ 虎ノ門大坂屋砂場店舗 - 国指定文化財等データベース(文化庁)。
参考文献
[編集]- 『絵本御伽品鏡』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 長谷川光信画、千草屋新右衛門、享保15年(1730年)、2016年4月11日閲覧
- 『大坂新町細見之図澪標 3巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 靖中菴畫、「廓名物之分」、和泉屋卯兵衞、宝暦7年(1757年)、2016年4月11日閲覧
- 『摂津名所図会』、秋里籬嶌著、竹原春朝齋図画、森本太助、寛政10年(1798年)
- 『二千年袖鑒』、伊豫屋善兵衛、堀田両平氏寄贈、嘉永2年(1849年)
- 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「砂場の系図」、光文社、2011年(平成23年)7月20日、2016年2月20日閲覧
- 「老舗そば屋の碑 江戸のツルッ 大阪生まれ」 - 朝日新聞、2011年(平成23年)5月11日、2016年4月10日閲覧
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 虎ノ門大坂屋砂場 - 公式ウェブサイト
- 虎ノ門大坂屋砂場店舗 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 木鉢会