行巡
行 巡(こう じゅん、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将・政治家。涼州天水郡平襄県の人。
事跡
[編集]姓名 | 行巡 |
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時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 涼州天水郡平襄県 |
職官 | 大将軍〔隗囂〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 隗囂 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
隴右[1]に割拠した新末後漢初の群雄の一人の隗囂の配下である。隗囂が挙兵して名声を高めると、行巡もその配下に加わり、大将軍に任命されている。
建武6年(30年)夏、隗囂は光武帝に反逆して、蜀(成家)の公孫述討伐のために隴右入りした耿弇らの漢軍を駆逐し、さらにその勢いを駆って、行巡と王元に三輔を攻撃させた。しかし、行巡が漢軍の馮異の前に敗北するなどして、この進攻は失敗に終わっている。建武7年(31年)、隗囂は公孫述陣営に加わり、朔寧王に封じられた。
建武8年(32年)春、漢の来歙が略陽(天水郡)を奇襲して攻め落とすと、行巡は隗囂の命により番須口を守ることで他の漢軍の進攻に備え、隗囂は略陽を包囲攻撃したが、数カ月経っても陥落せず、光武帝の親征を受けて敗走する。さらに漢に降った王遵の工作により、隗囂軍は次々と切り崩され窮地に陥り、隗囂が西城(隴西郡)に追い込まれてしまった。この時、王元が蜀から5千人余りの援軍を借りて救援に駆けつけると、行巡も周宗と共にこれに合流して隗囂の救援に向かった。漢軍との激戦の末、行巡らはついに隗囂を救出し、冀県(天水郡)へ退却することに成功している。また、漢軍も兵糧不足のため撤退し、安定・北地・天水・隴西の各郡は再び隗囂に帰属した。
建武9年(33年)1月、冀県で隗囂が病死したため、行巡は、王元・周宗らと共に、その遺児の隗純を後継の朔寧王として擁立した。しかし建武10年(34年)10月、隗純らは来歙に落門聚(天水郡冀県)で敗北し、行巡は、隗純・周宗らと共に漢に降伏した。
これ以後、行巡の名は、史書に見えない。
脚注
[編集]- ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋代のわずかな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。
参考文献
[編集]- 『後漢書』列伝3隗囂伝
- 同列伝7馮異伝