西園寺実満
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西園寺 実満(さいおんじ さねみつ、天保14年1月1日(1843年1月30日) - 大正7年(1918年)11月[1])は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した人物。西園寺実文の子[2]。
人物
[編集]実父・実文は実満が生まれる2年前に西園寺家より義絶されていた。実満自身は、幼少にして剃髪し、大和国の正法寺に入り、法名を栄朝と称し仏教や学問に励んだ[2]。
文久元年(1861年)に父の実文が死去すると、肉親がいないために三条西季知の猶子になった[2]。その後、実満は還俗し、西村丹波、松村篤之輔、植村徳之助などの変名を用い、木曾義仲の末裔を称した木曽源太郎(義顕)と共に、生野の変や戊辰戦争などに参戦した[2]。
明治維新後は鎮将府に出仕し、行政官書記も務めたが、明治2年(1869年)に横井小楠暗殺に連座して下獄、後に三条西家に幽閉された。同5年(1872年)9月に赦免となった。同年の壬申戸籍では、実満は西園寺姓を名乗ることになったが、西園寺家との争いを避け、身分は平民とした[2]。
その後は岩手県警部や盛岡警察署長などを務めたのちに下野し、国学、漢学、詩歌、書などに長じていたため、東京の神田一ツ橋に温和学堂を開き、門弟の教育にあたった。姪が東京都府中市善明寺の住職の室となっていたことから、晩年を善明寺で過ごした。大正7年(1918年)、76歳で没した[2]。墓は善明寺にある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 高埜利彦編『朝廷をとりまく人びと』(吉川弘文館、2007年)