西宮古墳
西宮古墳 | |
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石室開口部 | |
別名 | 西宮1号墳 |
所在地 |
奈良県生駒郡平群町西宮 (平群中央公園内) |
位置 | 北緯34度37分21.67秒 東経135度42分7.70秒 / 北緯34.6226861度 東経135.7021389度座標: 北緯34度37分21.67秒 東経135度42分7.70秒 / 北緯34.6226861度 東経135.7021389度 |
形状 | 方墳 |
規模 |
一辺35.6m 高さ7m以上(推定復元8m) |
埋葬施設 |
両袖式横穴式石室(岩屋山亜式) (内部に刳抜式家形石棺) |
出土品 | 須恵器 |
築造時期 | 7世紀中葉-後半 |
被葬者 | (一説)山背大兄王 |
史跡 | 奈良県指定史跡「西宮古墳」 |
地図 |
西宮古墳(にしのみやこふん/にしみやこふん)は、奈良県生駒郡平群町西宮にある古墳。形状は方墳。奈良県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]奈良県北西部、平群谷の廿日山丘陵の南側斜面に築造された古墳である。廿日山丘陵では最高所に前方後円墳の上山1号墳が所在し、最高所南西に横口式石槨を有する方墳の上山2号墳が、南裾に方墳の西宮古墳・西宮2号墳が分布する。古くより石室が開口し、これまでに数次の調査が実施されている。
墳形は方形で、一辺約35.6メートル・高さ約7.2メートル以上(南側)を測る(推定復元高さ約8メートル)[1][2]。墳丘は3段築成で、墳丘斜面は約35度の勾配を持つ[1]。墳丘外表では全面に貼石が認められ、貼石の下には約40センチメートルの裏込め礫層が認められるが[1]、埴輪は認められていない[3]。また墳丘周囲には周溝が巡らされ、東側周溝底にも貼石が認められる[2]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。巨石の切石を用いた整美な石室であり、内部には兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト[4](竜山石)製の刳抜式家形石棺が据えられる[2]。副葬品は失われているが、調査において須恵器坏蓋・高坏が出土している[5]。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀中葉-後半頃と推定される[2][5]。平群谷では代表的な終末期古墳として注目される[2]。被葬者は明らかでないが、古墳の規模・内容から厩戸皇子(聖徳太子)の子の山背大兄王の墓とする説が挙げられており、南1キロメートルでは厩戸皇子の離宮と推測される西宮遺跡が知られる[6]。
古墳域は1956年(昭和31年)に奈良県指定史跡に指定されている[7]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては、両袖式の横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:約14メートル
- 玄室:長さ約3.6メートル、幅約1.8メートル、高さ約1.8メートル
石室は巨石の切石を用いた整美なもので、奥壁・側壁・天井石にはいずれも一枚石が使用される。石材は平群町越木塚(石床神社旧社地付近)で産出する花崗岩である[2]。石材の目地には漆喰が認められるほか、石室の床面には近世期に礫石経が敷かれ[5]、羨門の天井石には墳丘斜面に合わせた傾斜が加工されている(岩屋山古墳(明日香村)に類例)[3]。石室の床面は墳丘2段目のテラス面に合わせられ、羨門前は墓道として一段下げられる[1]。
石室内には兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト[4](竜山石)製の刳抜式家形石棺が据えられており、現在は棺身のみが遺存する[2]。この棺身は長さ2.24メートル・幅1.15メートル・高さ0.76メートルを測り[2]、外面の上下には帯状の突帯が造り出されている[5]。
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石室俯瞰図
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家形石棺の棺身
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
文化財
[編集]奈良県指定文化財
[編集]- 史跡
- 西宮古墳 - 1956年(昭和31年)8月7日指定[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(奈良県教育委員会、1999年設置)
- 「西宮古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 猪熊兼勝「西宮古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 河上邦彦「西宮古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『奈良県生駒郡平群町西宮古墳発掘調査概報』平群町教育委員会、1995年。
- 「西宮古墳(4次)」『平群町町内遺跡発掘調査概報 平成11~13・17年度』平群町教育委員会、2007年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 県指定 西宮古墳 - 平群町ホームページ