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西山福太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西山 福太郎
生誕 1889年7月17日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1961-10-06) 1961年10月6日(72歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
親族 西山弥太郎(弟)
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西山 福太郎(にしやま ふくたろう、1889年明治22年)7月17日[1] - 1961年昭和36年)10月6日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]

経歴

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1889年(明治22年)東京府の出身[1]。福太郎は父・西山豊八の九男として生まれ、十男・弥太郎は後に川崎製鉄会長を務めた[3]陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第37期卒業[1]1936年(昭和11年)8月1日陸軍歩兵大佐進級と同時に留守第1師団参謀に着任[2]1937年(昭和12年)9月1日第101師団参謀長(上海派遣軍)に就任し中国大陸に出動[1][2]。クリークでの戦闘で苦戦した[1]1938年(昭和13年)3月には歩兵第12連隊長に転じた[2]

1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将進級と同時に歩兵第107旅団長(第21軍第104師団)に着任し[1][2]広東攻略戦に参加[1]1940年(昭和15年)12月2日東部軍司令部附となり[1]1941年(昭和16年)8月に東部軍兵務部長に着任[1]1943年(昭和18年)2月20日にパレンバン防衛司令官(南方軍)となり[1]、南方方面に出征[1]。同年6月10日に陸軍中将に進級し[2]1944年(昭和19年)7月1日第23師団長に親補され[1]フィリピン防衛に当たる[1]リンガエン湾長に上陸したアメリカ軍と激戦を繰り広げるが[1]、食料・弾薬が底をついたことからボコド陣地に撤退し、同地で終戦を迎えた[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

栄典

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勲章

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 福川 2001, 555頁.
  2. ^ a b c d e f 外山 1981, 314頁.
  3. ^ 『西山弥太郎:鉄鋼巨人伝』鉄鋼新聞社、1971年、5頁。NDLJP:12189571/24 
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
  5. ^ 『官報』第3907号「叙任及辞令」1940年1月15日。
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026