西山福太郎
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西山 福太郎 | |
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生誕 |
1889年7月17日 日本 東京府 |
死没 | 1961年10月6日(72歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
親族 | 西山弥太郎(弟) |
西山 福太郎(にしやま ふくたろう、1889年(明治22年)7月17日[1] - 1961年(昭和36年)10月6日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
[編集]1889年(明治22年)東京府の出身[1]。福太郎は父・西山豊八の九男として生まれ、十男・弥太郎は後に川崎製鉄会長を務めた[3]。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第37期卒業[1]。1936年(昭和11年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に留守第1師団参謀に着任[2]。1937年(昭和12年)9月1日に第101師団参謀長(上海派遣軍)に就任し中国大陸に出動[1][2]。クリークでの戦闘で苦戦した[1]。1938年(昭和13年)3月には歩兵第12連隊長に転じた[2]。
1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将進級と同時に歩兵第107旅団長(第21軍・第104師団)に着任し[1][2]、広東攻略戦に参加[1]。1940年(昭和15年)12月2日に東部軍司令部附となり[1]、1941年(昭和16年)8月に東部軍兵務部長に着任[1]。1943年(昭和18年)2月20日にパレンバン防衛司令官(南方軍)となり[1]、南方方面に出征[1]。同年6月10日に陸軍中将に進級し[2]、1944年(昭和19年)7月1日に第23師団長に親補され[1]、フィリピン防衛に当たる[1]。リンガエン湾長に上陸したアメリカ軍と激戦を繰り広げるが[1]、食料・弾薬が底をついたことからボコド陣地に撤退し、同地で終戦を迎えた[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。