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西田祥吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
獲得メダル
日本の旗 日本
男子フェンシング
アジア競技大会
2010 広州 エペ個人
2010 広州 エペ団体

西田 祥吾(にしだ しょうご 1982年11月27日- )は鹿児島県出身のフェンシング選手[1]

鹿児島県立鹿児島南高等学校[2]法政大学を卒業後、コーチ、所属先がない中トレーニングを続け、2008年2月にポルトガルワールドカップリスボン大会にて、2004年アテネオリンピック金メダリストのFISCHER(スイス)に準決勝で勝利、銀メダルを獲得し北京オリンピック出場を手繰り寄せる。

 その後2008年の北京オリンピックに出場権を獲得した[3]。男子エペでの日本人選手の出場はバルセロナオリンピック以来16年ぶりのことであった(世界ランキングによる出場は初)[4]。オリンピックでは初戦で敗れた[3]


北京オリンピック後、2009年4月にのNEXUS株式会社が新たに創設したフェンシングチームに所属することとなった[5][6]

2009年トルコ世界選手権の個人では優勝したAVDEEV(ロシア)を延長サドンデスまで追い込むも惜しくも敗れベスト16となった。

2010年アジア競技大会では個人と団体で銅メダルを獲得した[7]

2011年の世界選手権では個人でベスト32、団体で10位となった[8]

2012年4月、和歌山県で行われたロンドンオリンピック最終予選でベトナムのグエン・ティエン・ナットに13-15で敗れた[9][10]

2017年3月フェンシング日本代表男子エペチームのコーチに就任。

しかし2020年3月、息子の健康問題が判明し、帰郷。[11]

2023年8月時点では鹿児島県立鹿児島南高等学校のコーチを務めている。[12]

脚注

[編集]
  1. ^ 北京オリンピック日本代表選手段”. 日本オリンピック委員会. 2012年6月4日閲覧。
  2. ^ 西田祥吾選手壮行会”. 鹿南ブログ (2008年6月23日). 2012年6月4日閲覧。
  3. ^ a b 「居候男」友にメダル届けられず”. 日刊スポーツ (2008年8月11日). 2012年6月4日閲覧。
  4. ^ 【フェンシング】西田、「北京」へ切符 男子エペで16年ぶり”. 中日新聞 (2008年4月1日). 2012年6月4日閲覧。
  5. ^ NEXUS、フェンシングチームを創設”. 電子遊戯機工業協同組合 (2009年4月). 2012年6月4日閲覧。
  6. ^ NEXUS フェンシング普及に向けチーム創設”. 娯楽産業協会 (2009年4月17日). 2012年6月4日閲覧。
  7. ^ 西田祥吾 (2010年11月26日). “世界選手権 アジア大会を終えて”. 2012年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月4日閲覧。
  8. ^ 西田祥吾 (2011年11月22日). “まだまだ”. 2012年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月4日閲覧。
  9. ^ 西田 2大会連続五輪逃した…アジア選手権後に引退へ”. スポーツニッポン (2012年4月21日). 2012年6月4日閲覧。
  10. ^ Nguyễn Tiến Nhật đoạt vé dự Olympic London” ((ベトナム語)). thethao.tuoitre.vn (2012年4月21日). 2012年6月4日閲覧。
  11. ^ 「先輩にもここにいてほしかった…」見延和靖(34)が明かす、絶対に“エペ団体で金メダル”を獲りたかったもう1つの理由(田中夕子)”. Number Web - ナンバー. 2024年8月19日閲覧。
  12. ^ フェンシング男子エペで鹿児島南・篠原がV、恩師と二人三脚でたどり着いた頂点”. 読売新聞オンライン (2023年8月4日). 2024年8月19日閲覧。

外部リンク

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