西郷寿員
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝元年(1673年) |
死没 | 寛保元年10月19日(1741年11月26日) |
改名 | 万之丞(幼名)→重員(初名)→寿員 |
別名 | 靭負(通称)、治員 |
戒名 | 縁生院殿同夢日諦大居士 |
官位 | 従五位下、市正、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 安房東条藩主→下野上田藩主 |
氏族 | 大村氏→西郷氏 |
父母 |
父:大村純長、母:相沢氏 養父:西郷延員 |
兄弟 | 大村純真、大村純尹、大田原清勝、大村純庸、寿員 |
妻 | 正室:西郷延員の娘 |
子 | 養子:西郷忠英 |
西郷 寿員(さいごう ひさかず)は、江戸時代中期の大名、旗本(交代寄合)。安房東条藩の第3代藩主、下野上田藩主。
生涯
[編集]延宝元年(1673年)、肥前大村藩主・大村純長の五男として生まれる。貞享5年(1688年)7月29日、安房東条藩第2代藩主・西郷延員の婿養子となる。徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄2年(1689年)5月18日に御小姓となる。12月7日に従五位下、越中守に叙任する。元禄3年(1690年)12月25日、養父の隠居により家督を継ぐ。元禄5年(1692年)2月7日、下野上田藩に移封され、元禄6年(1693年)11月13日に中奥小姓となるが[1]、12月9日に先年に処罰された延員と同じく不行状、勤務怠慢などの罪を咎められて所領の半分を没収され、上田藩は廃藩となった。その後、西郷家は5000石の交代寄合となった。
元文3年(1738年)に隠居。寛保元年(1741年)に死去、享年69。跡を大田原清勝の子の忠英が養子となって継いだ。
脚注
[編集]- ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)212頁