西郷正友
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長9年1月21日(1604年2月20日)[1] |
別名 | 正員[1][2]、市十郎[3]、藤左衛門[2][3] |
戒名 | 遠離院日久[1] |
官位 | 伊予守[1][3] |
主君 | 井伊直政 → 直勝 |
氏族 | 三河西郷氏 |
父母 | 父:西郷元正[4] |
兄弟 | 義勝[3]、正友 |
妻 | 奥山朝利娘[5] |
子 | 西郷重員[6] |
西郷 正友(さいごう まさとも)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。
概要
[編集]元亀2年(1571年)春、武田氏配下・秋山虎繁(信友)による三河侵攻に対抗。懸命の迎撃戦により武田軍を一時的に退ける事に成功したものの、総領の兄・義勝はこの戦いで命を落とした[3]。
徳川家康からは西郷氏の後継に、従兄弟・家員(清員の子)が指名されている。兄の遺児が幼弱であることが理由なら、家員よりも西郷嫡流に生まれた正友への家督相続も考えられたが、家康はそれすら認めなかった。
天正15年(1587年)、木俣守勝・椋原政直とともに井伊直政に付けられる。最盛時で2000石を食んでいたともいわれる。その後、隠居時には300石だったという。
現在、彦根東高校の付近に残る西郷屋敷跡とは、彦根藩で重きを成していた子の重員に宛がわれた屋敷だと思われる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 祖山法忍『井伊氏系図』。浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
- 功力君章『井伊年譜』 4巻。国立国会図書館デジタルコレクション
- 三上参次 編『寛政重修諸家譜 第2集』国民図書、1923年。国立国会図書館デジタルコレクション