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広橋規子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
規子女王から転送)
広橋 規子
(規子女王)
広橋家
1922年頃
続柄 梨本宮守正王第2女子

全名 広橋 規子(ひろはし のりこ)
身位 女王 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1907年4月27日
日本の旗 日本東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区)梨本宮邸
死去 (1985-08-25) 1985年8月25日(78歳没)
日本の旗 日本東京都新宿区東京女子医科大学病院
配偶者 広橋真光
子女 広橋樹勢子
広橋万僖子
広橋興光
広橋儀光
父親 梨本宮守正王
母親 守正王妃伊都子
栄典 勲二等宝冠章
役職 大日本婦人会渋谷支部長
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広橋 規子(ひろはし のりこ、1907年明治40年〉4月27日 - 1985年昭和60年〉8月25日)は、日本の元皇族梨本宮守正王同妃伊都子の第2王女子。広橋真光伯爵の妻。旧名は、規子女王(のりこじょおう)。皇籍離脱前の身位女王で、皇室典範における敬称殿下。姉は、李方子香淳皇后は従姉にあたる。

生涯

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1918年(大正7年)、姉方子女王の納采の儀にて。右端が規子女王
1920年代後半

1907年明治40年)4月27日梨本宮守正王同妃伊都子の第2王女子(第2子)として誕生。乳児期から落ち着いた様子であったという[1]

1925年大正14年)7月、山階宮武彦王と同年秋にも結婚すると発表され、規子女王は学習院を退学した[2]。内約中は、武彦王が創設した御国航空練習所を訪問し、強い関心を示した[3]。しかし、武彦王は前妃関東大震災で失って以降、神経衰弱を発病しており、まだ10代と若い規子女王への配慮[4]から、翌1926年(大正15年)年7月に婚約を辞退すると発表があり[5]、8月に正式に破談となった。

1926年(大正15年)12月2日広橋真光伯爵に降嫁した[6]。その後は、慈善活動を行った[7]。戦中は大日本婦人会の渋谷支部長[8]として活動していた。

1985年(昭和60年)8月25日脳腫瘍のため、東京女子医科大学病院にて逝去した[9]

栄典

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脚注

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  1. ^ 中村秋人『名媛と筆蹟』博文館、1909年12月。全国書誌番号:40071861  p.54
  2. ^ 1925年7月11日読売新聞「空の宮の御婚儀 梨本宮規子女王と十月中旬に 御結婚後は御留學か」
  3. ^ 1925年5月2日朝日新聞「御婚約の宮と御同伴で きのふ規子女王の立川御見學 空の宮様に劣らぬ御熱心ぶり」
  4. ^ 1926年8月6日読売新聞「山階宮武彦王殿下御婚約御解除を発表」
  5. ^ 1926年7月25日読売新聞「山階宮武彦王 御結婚を御辭退」
  6. ^ 大正15年宮内省告示第29号(『官報』第4284号、大正15年12月3日)(NDLJP:2956434
  7. ^ 1930年11月23日朝日新聞(夕刊)「各宮妃殿下お成りの、市冬季失業救済バザー」
  8. ^ 1942年11月5日朝日新聞「一〇〇万超える会員 あす日婦支部の結束強化大会」
  9. ^ 1985年8月7日読売新聞「(訃報欄)広橋規子さん」
  10. ^ 『官報』第4280号、「叙任及辞令」大正15年11月29日(NDLJP:2956430/4