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親善人形

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アメリカから送られた青い目の人形と歓迎のために飾られた日本人形。鴻巣雛の産地で知られる鴻ノ巣町にて。(1927年)

親善人形(しんぜんにんぎょう)とは、文化の面で互いの国及び人物との友好を深め、紛争を回避し、平和を維持することを目的とするべく、友情の証として贈られる人形のこと。友情人形・人形使節とも呼ぶ。交流の形式は国家レベルから草の根運動まで様々である。日本では昭和初期にアメリカとの間に繰り広げられた「青い目の人形」の人形交流を指すことが多い。

贈られた人形に対し、相手の国や人物へお礼のために贈る人形は「答礼人形(とうれいにんぎょう)」と呼ばれる。

親善人形の歴史(近代まで)

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世界における人形贈呈の歴史は14世紀まで遡り、西洋の国々の間ではファッションドールの寄贈が行われていたことが知られている。当時の人形贈呈の意義としては二国間の親善というよりは、自国の女性のファッションの着こなしを伝えるためのものだとされていた。20世紀に入ると、人形交流はフランスロシア間での玩具の取引をはじめとしたものを端緒として、古くから人形の文化に慣れ親しんだ日本の外交にも少なからず影響を与えることになった[1]

親善人形を伴う交流の日本の事例

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親善人形の一例。左と中央は1986年にカナダオーストラリアから贈られた人形で、右の2体はヨーコと呼ばれる人形(横浜人形の家・展示)

日本の場合、幕末にアメリカの黒船が来航した際の贈り物として少数の人形が贈呈されたり、明治期にロシアやドイツの要人への人形の贈呈や、フランスからの人形の請願があった等の数例にすぎなかった[1]日露戦争以降に関してはさまざまな親睦団体が出現して、文化の面での国同士の小規模な交流が行われてはいたものの、スポーツの親善試合ほどの規模の交流はまだ実現されておらず、人形交流においても大正時代にローマ法王庁雛祭りの風習を知ってもらうために雛人形を献納したり、万国博覧会に人形を出品したりするなど、日本の文化を紹介する程度で、人形交流が本格的に行われるのはアメリカからの友情人形の贈答以降になる。人形交流は太平洋戦争以前に頻繁に行われ、後述の事例の他、昭和6年(1931年)4月8日にシャム国王族に市松人形が日本の皇后より寄贈されたのをはじめ、少年赤十字団などを通じて[1]朝鮮(1931年2月、民族間の交流として)やハンガリー1933年8月)、アメリカ及びブラジル(同12月)、フィンランド1934年11月)、フランス(1935年9月)、ドイツ(同12月)・イタリア1937年12月)、アルゼンチン及びウルグアイ1939年[2]などに市松人形や雛人形が贈られた。日本女子大学の校長の井上秀は、同校長を務め「青い目の人形」を通じてのアメリカとの友好を図った渋沢栄一に影響され、人形交流を重要視して海外に人形を贈り、返礼として、ドイツ(1936年)やフィンランド(1938年)から答礼人形を戴いている(人形は現在行方不明)[3]

  • 日米交流の友情人形
    • 詳細は「青い目の人形」を参照のこと。
    • 昭和2年(1927年)3月、アメリカが日本との軋轢を避けるべく、民間の慈善団体による呼びかけで、児童が持ち寄った友情人形(通称:青い目の人形)を日本に贈ることにより、日米間の友好を図った。同年暮れに日本側も返礼として各地区の代表となる市松人形(答礼人形)をアメリカへ寄贈した。日米開戦により、日本に贈られた友情人形が敵国人形とみなされ、大半が失われたものの、戦後に辛うじて残った人形の発見を経て、日米間の人形交流が継続されている。
  • 日満親善の人形
    • 昭和8年(1933年)5月24日、60体の市松人形の送別会が日比谷公会堂で行われ、5月27日~6月13日にかけて、36体の人形(この頃から日本を代表する人形使節として「やまと人形」と呼ばれた)が満州国へ寄贈され、新京などの地域へ配布された[4][5]。満州国へはこれ以外にも度々人形が贈られている。
  • ニューヨーク・東京間の親善人形
    • 昭和10年(1935年)8月にニューヨーク市長から東京市長宛に友好の証として等身大の人形「ミスター&ミセス・アメリカ」が渡日。日本側の等身大の人形の出迎えを受けた後、日本の各地域を訪問し、アメリカへ帰国した[6]
  • 防共親善人形
    • 1936年から1937年にかけて日本はドイツやイタリア間で「日独伊防共協定」を結び、その中で国際人形協会により、ヒトラームッソリーニらに日本人形が寄贈されたほか、1938年2月に『防共親善の日』を記念し、ドイツやイタリア、満州国、スペインの大使に人形が寄贈された[1]。返礼として、ドイツ大使館から千葉県の東金高等女学校へドイツ女学生の人形が贈られた。

終戦後も様々な形式で親善人形を伴う交流が行われている。

  • アメリカへの人形使節
  • 「世界友の会」による人形交流
    • 1948年に2人の篤志家により親善や友好・文化交流を目的として設立された「世界友の会」は、世界各国に人形などのさまざまな産物を交換し、中でも人形に関しては1963年までにのべ65か国への寄贈に対し、54か国から350体ほどが返礼の人形として贈られた[1][7]
  • 平和大使人形
    • 国際児童年にあたる昭和54年(1979年)、衆議院議員(当時)の園田天光光の呼びかけで児童らの1円募金や企業・法人の寄付により、「平和大使人形(大和太郎・花子)」(市松人形、一組当り50万円、計3,500万円[8])100体が世界100カ国に寄贈され、答礼として57カ国からそれぞれの国の人形117体が日本に贈られた[9][10][11]。元々は1978年に東京の三越で「青い目の人形」の展示会が行われた際、「どうしてここには日本とアメリカの旗しかないの?」と来場した子供に尋ねられ、これを聞いた園田が世界の国々に人形を贈ろうとした事が発端になっている[11]。これらの人形は、平成25年(2013年)にオープンした『天草市立天草コレジヨ館』に展示されている。
  • 横浜からの人形使節
    • 昭和58年(1983年)春、横浜市民から集められた600体余りの手作りの人形がヨーロッパ各地へ、そして翌年には北米各地域に贈られた[12]横浜人形の家開館式には、人形を受け取った人たちも出席している。

出典

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  1. ^ a b c d e f g Berezikova, Tatiana (2018-09) (日本語). 近代日本における人形を介した国際関係史―文化交流から文化外交まで―. 大阪大学. doi:10.18910/70780. https://hdl.handle.net/11094/70780 2020年11月26日閲覧。. 
  2. ^ 世界海運の制覇へ 七洋を馳駆する日の丸商船 明年は七百万トンだ - 大阪毎日新聞 1939年9月16日号(神戸大学 電子図書館システム)
  3. ^ 日本人形玩具学会誌『かたち・あそび』第19号 2008年、『青い目の人形と日本女子大学校』増淵宗一・著、p.33~46。
  4. ^ 朝日新聞 昭和8年5月25日、28日、6月14日号
  5. ^ 学童学校校舎その5 - 満洲写真館 2015年5月26日閲覧。
  6. ^ 『THE TRAVEL BULLETIN』ミスター&ミセスアメリカが無事日本に到着 - 日本郵船HP
  7. ^ 第37巻 世界の人形 - colorbooks_cafe 2021年3月11日閲覧。
  8. ^ 第17回 JKSKサロン スケッチ - NPO法人 JKSK。
  9. ^ 『写真資料集 青い目の人形』武田英子・編著 出版:山口書店、1985年8月5日発行、ISBN 4-8411-0105-5、p.55,56。
  10. ^ 世界平和大使人形の館をつくる会
  11. ^ a b 天草市立天草コレジヨ館 - 金剛株式会社HP。
  12. ^ 横浜人形の家(調査季報第94号p.45~51、1987年6月刊行) - 横浜市政策局HP
  13. ^ 九代玉屋庄兵衛プロフィール
  14. ^ 54年前のお礼 北海道の女性に人形と手紙 - 毎日新聞HP、2016年3月2日閲覧。
  15. ^ 「富士山三保子」89年ぶり里帰り 日米友好の日本人形 静岡(アーカイブ) - 静岡新聞SBS 2016年2月22日号 2021年3月15日閲覧。

関連項目

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参考文献

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  • 是沢博昭『青い目の人形と近代日本:渋沢栄一とL.ギューリックの夢の行方』世織書房、2010年。ISBN 978-4-902163-56-8  p.187~210(昭和初期の国際交流の事例)
  • 武田英子『人形たちの懸け橋―日米親善人形たちの二十世紀』小学館文庫、1998年。ISBN 978-4094027211 

外部リンク

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  • 吉徳これくしょんページ - 吉徳
    • 「青い目の人形」を収蔵している他、答礼人形の修繕を請け負っている。また、親善人形に関する資料を収集している。
  • 浦安親善人形交流の会
    • 手作りの人形を外国の学校等に寄贈する民間の団体。返礼の人形も戴いている。