解須
解 須 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 해수 |
漢字: | 解 須 |
発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
日本語読み: | かい す |
解 須(かい す、朝鮮語: 해수、生没年不詳)は、百済の大臣。大姓八族の一つである解氏出身の貴族。官位は「内法佐平」「上佐平」[1]。腆支王の外戚である[1]。
人物
[編集]407年、「内法佐平」に任命される。「内法佐平」に任命されたのは、人質となって倭国へ赴いていた腆支王の国王即位に解氏が決定的役割を果たしたことに対する恩賞とみられる。429年10月、「上佐平」の余信が死亡すると、代わって「上佐平」に任命された。その後、国王中心の親衛体制を構築した蓋鹵王の執権強化の結果、その他の解氏出身貴族とともに、権力から排除された[1]。
出自
[編集]大姓八族の一つである解氏は夫余族の出自[2]。解氏は、百済の建国初期から中央政界で大きく活躍したが、百済の建国者・温祚とは異なる勢力であるため、解氏の国政参加は、百済の国政に参加する勢力が拡大していく過程といえる[2]。
百濟始祖溫祚王,其父,鄒牟,或云朱蒙。自北扶餘逃難,至卒本扶餘。扶餘王無子,只有三女子,見朱蒙,知非常人,以第二女妻之。未幾,扶餘王薨,朱蒙嗣位。生二子,長曰沸流,次曰溫祚。及朱蒙在北扶餘所生子,來為太子。沸流、溫祚,恐為太子所不容,遂與烏干、馬黎等十臣南行,百姓從之者,多。遂至漢山,登負兒嶽,望可居之地,沸流欲居於海濱。十臣諫曰:「惟此河南之地,北帶漢水,東據高岳,南望沃澤,西阻大海。其天險地利,難得之勢,作都於斯,不亦宜乎?」沸流不聽,分其民,歸彌鄒忽以居之。溫祚都河南慰禮城,以十臣為輔翼,國號十濟,是前漢成帝鴻嘉三年也。沸流以彌鄒,土濕水鹹,不得安居,歸見慰禮,都邑鼎定,人民安泰,遂慙悔而死,其臣民皆歸於慰禮。後以來時百姓樂從,改號百濟。
温祚の父は鄒牟または朱蒙といい、北夫余から逃れて卒本夫余に着いた。夫余王には男児が無く娘が三人いたが、朱蒙の人となりをみて非凡の人であるとして二番目の娘を嫁がせた。その後、夫余王が亡くなったので朱蒙が王位について、二人の子をなした。長子を沸流、次子を温祚といった。朱蒙がかつて夫余にいたときの子が朱蒙の下に来て太子となったため、沸流・温祚はこの太子に受け容れられないことを恐れて、烏干・馬黎らの十人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。漢山まできて負児嶽に上り、居留地として相応しいかどうかをみることとした。沸流は海浜に住みたいと言い出し、十人の家臣はこの地が都とするに相応しいと諌めたが聞かず、引き連れた人々を分けて、弥鄒忽まで行ってそこに国を建て、温祚は漢山の地で慰礼城に都を置き、国を起こした。これが前漢の鴻嘉三年のことであり、初め十人の家臣に援けられたので国号を「十済」としたが、のちに沸流の下に従った人たちも慰礼城に帰属し、百姓を受け容れたので国号を「百済」と改めた。 — 三国史記、巻二十三
「十済」と「弥鄒忽」の建国者と記録される沸流や温祚は、個人的な政治勢力ではない。卒本夫余を離れ、移民後に小国を建国したことから、一定の集団を形成していたことは間違いない。そのため、沸流や温祚は十人の家臣と大勢の人々を従えていたと記録されている[3]。ところが、「十済」の建国地だった漢江流域には沸流や温祚集団以外にも北方から来た移民集団がいた[3]。すなわち、「十済」「弥鄒忽」建国時、「十済」の周辺は「十済」とは別の移民が建国した小国があった。『三国史記』温祚王四十一年条は、五部の北部に属する解婁を「右輔」とし、解婁は本来夫余人だったという記録を通じて「十済」の北側に夫余からの移住者が定着していた事実が分かり、そのような夫余から移民してきた勢力が「十済」に統合され「百済」の成長につながった[3]。