許修直
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許修直 | |
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『最新支那要人伝』1941年 | |
プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年)[1] |
死去: |
1954年 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清江蘇省常州府無錫県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 許修直 |
簡体字: | 许修直 |
拼音: | Xǔ Xiūzhí |
ラテン字: | Hsü Hsiu-chi |
和名表記: | きょ しゅうちょく |
発音転記: | シュー シウジー |
許 修直(きょ しゅうちょく)は中華民国の政治家。旧名は卓然。字は西渓。
事跡
[編集]日本に留学、中央大学法科を卒業した。なお留学中に中国同盟会に加入している。帰国後は、江蘇提法司科長、蘇州私立法政学堂教習、浙江高等審判庁推事、同代理庁長、浙江官立法政学堂教習、大理院推事を歴任した。[2][3]
1924年(民国13年)11月、黄郛に起用されて国務院印鋳局局長となる。以後、黄の腹心として活動することになった。1927年(民国16年)、国民政府に転じ上海市法制室主任となる。同年10月、交通部秘書長となった。翌年12月、交通部参事となる。1933年(民国22年)、行政院駐北平政務整理委員会委員(委員長:黄郛)にも任ぜられ、日本との折衝にもあたった。1935年(民国24年)7月、内政部長の黄の下で内政部常務次長に昇格した。翌年2月、病気により辞任した黄に従う形で許修直も辞任している。[2][3]
日中戦争勃発後の1937年(民国26年)12月、中華民国臨時政府新民会厚生部長となる。翌年1月、行政委員会調査処処長となった。3月、中華民国維新政府で行政院司法行政部部長に任命されたが、これは受けなかった。同年7月、華北電信電話株式会社副総裁となる。このほか、北京華僑協会理事などをつとめた[4]。1939年以降の動向はしばらく不詳となるが、1945年(民国34年)2月、汪兆銘政権の北京特別市市長に任ぜられている。汪兆銘政権崩壊後の動向は不詳だが、1954年に北京で死去した。享年74。[2][3]
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
中華民国維新政府
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南京国民政府(汪兆銘政権)
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