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許錟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
許談から転送)
許錟
허담
生年月日 1929年3月6日
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮咸鏡北道
没年月日 1991年5月11日
死没地 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮平壌
出身校 金日成総合大学
モスクワ大学
所属政党 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党
配偶者 金貞淑

朝鮮民主主義人民共和国の旗 政務院副総理
内閣 金一内閣
朴成哲内閣
李鐘玉内閣
在任期間 1973年2月26日 - 1983年12月28日 
国家主席 金日成

朝鮮民主主義人民共和国の旗 第4代外務相
内閣 金日成内閣、金一内閣、
朴成哲内閣、李鐘玉内閣
在任期間 1970年7月11日 - 1983年12月28日
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許錟
各種表記
チョソングル 허담
漢字 許錟、許淡
発音 ホ・ダム
日本語読み: きょ・たん
ローマ字 Hŏ Dam
英語表記: Ho Dam
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許 錟(ホ・ダム、1929年3月6日 - 1991年5月11日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。第4代外務大臣副首相などを歴任。許淡とも表記する[1]朝鮮対外文化連絡協会委員長の金貞淑は妻[2]

経歴

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日本統治時代咸鏡北道で生まれる。金日成総合大学卒業、モスクワ大学留学

朝鮮労働党入党後、1955年8月から朝鮮労働党中央委員会に勤務。1962年1月に外務次官に就任。その後、第一外務次官に昇格。1970年7月11日、外務相(大臣)に就任し、同年11月の第5回党大会で党中央委員に選出される。1972年最高人民会議代議員に選出される。同年12月、憲法改正による国家機構の改編が行われて内閣が政務院に改組されると、許は引き続き政務院外交部長(外務大臣)に就任した。1973年2月26日、政務院副総理を兼任。

1980年10月の第6回党大会で政治局員候補となる。1983年11月、党政治局員に昇格し、書記を兼務。同年12月28日、政務院副総理兼外交部長を辞任。1984年1月、祖国平和統一委員会委員長に就任。1989年11月、最高人民会議外交委員長に就任。

1991年5月11日、死去。 1991年5月14日、国葬が行われた[3]

脚注

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  1. ^ 独立行政法人日本貿易振興機構アジア経済研究所が発行する『アジア動向年報』では、ホ・ダムの表記を1970年代までは許淡とし、1980年代に入ると許錟としている。
  2. ^ 北朝鮮、対外文化連絡委員長に金貞淑氏を任命 聯合ニュース 2010年2月19日
  3. ^ 「【日誌】――1991.5.11~6.10」『月刊朝鮮資料』第31巻第8号、朝鮮問題研究所、1991年8月1日、80頁、NDLJP:2676982/42 
 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
先代
朴成哲
外務相
1970年 - 1983年
次代
金永南