謝希深
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謝希深 | |||||||
繁体字 | 謝希深 | ||||||
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簡体字 | 谢希深 | ||||||
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別名 | |||||||
繁体字 | 謝絳 | ||||||
簡体字 | 谢绛 | ||||||
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謝 希深(しゃ きしん、994年[1]/995年[2] - 1039年[1][2])は、中国北宋の文人官僚。欧陽脩の友人。梅尭臣の妻の兄[2]。希深は字。諱は絳(謝絳、しゃこう)[2]。
人物
[編集]富陽(現在の浙江省杭州市富陽区)の人[3][4]。謝安・謝玄ら「陽夏の謝氏」の末裔[3][4]。
大中祥符8年(1015年)、進士に及第[5]。官僚として知制誥、河南府通判[1]などを務め、鄧州知州在任中に没した[1][6]。
欧陽脩の著名な発想法「三上」(インスピレーションの湧きやすい状況は馬上・枕上・厠上)は、『帰田録』において謝希深に語った言葉として伝わる[7][8]。また、欧陽脩『集古録』のもとになった金石の収集旅行に同行した一人でもある[9]。
著作
[編集]詩はすべて散逸している[6]。謝希深に帰される著作として、『公孫龍子』[10]『韓非子』[11]の注釈書が現存する。
親族・関連人物
[編集]- 謝濤 - 父
- 謝景初 - 子[12][5]
- 謝景温 - 子[5]
- 謝景平 - 子[5]
- 謝景回 - 子[5]
- 梅尭臣 - 謝希深の妹(謝氏)を最初の妻とした[13][14]。
- 欧陽脩 - 友人
- 銭惟演 - 幕主
主な史料
[編集]- 『宋史』巻295(列伝)[3]
- 『呉郡志』巻25[15]
- 『東都事略』巻64[16]
- 『銭塘先賢伝賛』[4]
- 『宋名臣言行録』
- 蔡襄『端明集』巻28「謝公堂記」[17]
- 欧陽脩『尚書兵部員外郎知制誥謝公墓誌銘』[18]
- その他、欧陽脩や梅尭臣の詩文[19]
脚注
[編集]- ^ a b c d 大井さき「慶暦後期の梅堯臣詩について」『中國中世文學研究』第69号、広島大学、2017年。 NAID 120006332002 。63頁。
- ^ a b c d 遠藤 1996, p. 426.
- ^ a b c 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:宋史/卷295
- ^ a b c 錢塘先賢傳贊 - 中国哲学書電子化計画
- ^ a b c d e 《吳郡志》卷二十五
- ^ a b 盆詩の会「第2章『宋詩別裁』五言絶句訳注」『王安石及び宋詩別裁 五言絶句訳注』お茶の水女子大学附属図書館、2015年 。181頁。
- ^ 「三上という言葉の出典を知りたい」(山梨県立図書館) - レファレンス協同データベース
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:歸田錄
- ^ 湯浅陽子「『集古録』をめぐる人々」『三重大学人文学部文化学科研究紀要』第32号、三重大学人文学部文化学科、2015年。 NAID 120005575031 。20頁。
- ^ 狩野直喜『中国哲学史』岩波書店、1953年。ISBN 978-4007300363。NDLJP:2970880。249頁。
- ^ “国家图书馆出版社”. www.nlcpress.com. 2022年11月19日閲覧。
- ^ 遠藤 1996, p. 201.
- ^ 坂井多穂子「梅尭臣の後半生の交友詩 : 裴煜癒雨と宋敏修について」『東洋大学中国哲学文学科紀要』第17号、東洋大学文学部、2009年。 NAID 120005274070 。91頁。
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:南陽縣君謝氏墓誌銘
- ^ 《吳郡志》卷二十五
- ^ 東都事略 : 卷六十四 - 中国哲学書電子化計画
- ^ 竹浪遠「宋代文人士大夫の詩文集にみる絵画関連資料 北宋編(1)」『古文化研究 : 黒川古文化研究所紀要』第13号、黒川古文化研究所、2014年。 NAID 40020082731 。126頁。
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:尚書兵部員外郎知制誥謝公墓誌銘
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:和謝希深會聖宫
参考文献
[編集]- 遠藤哲夫『新釈漢文大系 72 唐宋八大家文読本 3』明治書院、1996年。ISBN 978-4625570728。